第35話 赤ん坊、警戒する
すぐに、ベティーナが顔を出す。
「ウォルフ様、お加減は……」
「平気だ」
即座に、兄は身を起こした。
「起きる。ルートの着替えを頼む」
「はい」
着替えた僕はベティーナに抱かれて、兄と階下に降りていった。
食堂には料理人夫妻と執事の他に、母とイズベルガも集まっていた。
母と兄の朝食を始めながら、情報を整理する。
母がヘンリックに尋ねた。
「賊の狙いがウォルフの命だったということに、まちがいありませんか」
「はい。ウォルフ様にそう言っていたということですし、あの屋敷中に響くような音を立てて窓を叩き割った手口からしても、ウォルフ様の命を奪ってすぐに立ち去るつもりだったとしか思えません」
「なんてこと……」
「しかし、最初にはキッチンを狙っていたというのですよね?」
イズベルガの問いには、ヘンリックは首を捻った。
「それが解せません。まさか二度の侵入が別々の賊だったとは考えにくいですし。先に一階を狙ってみせて警戒をそちらに集める陽動だったか、ウォルフ様の命と同じほどの目的がキッチンにあったか」
「しかし、うちのキッチンに賊が狙うようなものがあるか? そんな高価なものなど、置いていないだろう」
「まったくです。しかしあの窓を割る強引な手口なら、陽動など必要としないとも思えますし。他にキッチンを狙う目的は思いつきませぬ」
「だよなあ」
兄も母もすっかり沈痛な様子で、食事の手が止まっている。
それをイズベルガに促されて、重そうにスプーンを動かし始めた。
実際、左腕に包帯を巻いている兄は、こんな何気ない動作にもどこか不自由そうだ。
そちらに気遣いの目を向けながら、ヘンリックは続けた。
「それよりもウォルフ様、今後のことを考える必要があります。お命を狙って失敗した相手は、目的を果たすまで襲撃を諦めないやもしれませぬ。当面は外出を控えて、私とランセルを傍に置いてください」
「……分かった」
「それから、敵の狙いがウォルフ様だけと断定するのも早計です。奥様とルートルフ様の安全も考えて、できるだけ皆様が一緒にいらっしゃるのが望ましいと思います」
「そうですね」母が頷いた。「最近はあまり使っていないそちらの居間の暖炉に火を入れて、昼間はみんなでそこにいるようにしましょう。少し不自由でも、ベッセル先生とのお勉強もそこでするのがいいでしょう」
「それは構いませんが母上、そんな生活も長く続けると、こちらの活動に支障が出ます」
「父上に連絡を入れて、護衛の人数を増やしてもらいたいと思います。その護衛を伴ってなら、多少は外出もできるようになるでしょう」
「しかし、我が家にそのような財政の余裕は……」
「ウォルフ、そのようなことを言っている場合ではないのですよ。父上やわたしにとって、いちばん大切なのはあなたの無事なのです」
「……はい」
村の作業は当分兄もヘンリックも視察に赴けないが、今までのまま進めてもらうことにする。
そのあたりの事情の説明のために朝食後、ウェスタに作業場へ行ってもらった。
間もなく戻ってきた彼女の後ろに、ディモと二人の若い男が従ってきている。
そういう事態なら、ぜひ領主邸の警備に参加させてくれ、という申し出だ。
「領主様のご家族に何かあるなんて、絶対あっちゃならねえさ。特に今、ウォルフ様を失ったら、立ち直りかけている村のみんなが望みを失ってしまう。これは村のみんなの総意なのさ」
ディモの熱弁を聞いて、そっと母が歩み寄った。
「数日中に、護衛の増強があるはずです。それまで、よろしくお願いしますね」
「任してくだせえ」
計画では、この屋敷に三人が詰めて、交代で一人は外を警戒して回る。
中に待機する者も時間を無駄にしたくない、手作業をさせてもらいたいということなので、武道部屋を待機と作業用に使ってもらうことにした。
木の板や竹のような材料を持ち込んで作り出したのは、深い雪の上を歩くための道具だそうだ。
夜には別の三人と交代し、寝ずの番に当たる。これも交代で、一人は外回りを行う。
これにより、一応ヘンリックとランセルは睡眠をとることができるようになった。もちろんいつ跳び起きてもいい心がけで、熟睡できるにはほど遠いだろうが。
来訪したベッセル先生を居間に招いて、午前の勉強はそこで始める。
そこそこ広い部屋だが。
左のソファとその後ろに用意した椅子で、母とイズベルガ、ベティーナが、編み物。毛糸の手袋や帽子など、家人たちの冬装備を作っているらしい。
右手には簡易の机と椅子を用意して、ヘンリックが事務仕事。
その中央のテーブルを挟んだソファに、僕を膝に乗せた兄がベッセル先生と向かい合って、勉強を行う。
しかも、兄のソファのすぐ後ろには、オオカミのザムが長々と寝そべっている。
にわかに一言で『何部屋』と表現の言葉が見つからない、混沌とした空間がそこにできていた。
さすがに先生も呆気にとられていたが、事情を聞いてすぐに納得したようだ。
おおむねのところは納得したようだが、ただ一つ。
「ルートルフ様を抱っこしての筆記は、やりにくくないですか?」
「今朝からルート様、まったくウォルフ様から離れようとされないんですう。お兄様が心配でしかたないんじゃないかと思います」
ベティーナの説明に「なるほど」と苦笑で頷いている。
僕が決して勉強の邪魔をしないのは十分知っているので、先生もそれ以上拒否しようとはしなかった。
僕としては、この国の地理や歴史の話を兄と一緒に学べる点、まったく問題なしだ。
計算練習ではこっちの暗算の方が先に正答してしまう点、秘かに溜息ものだったが。
一通りの座学を終えて、怪我のため運動は控えることにして、先生と兄はヘンリックも交えて今回の件の話を始めた。
「ことさらにウォルフ様の命を狙う者など、心当たりはあるのですか?」
「私には、狙われる覚えなどありません。恨まれている覚えと言えば、野ウサギくらいだ」
「野ウサギが暗殺者を雇ったとは思えないですしねえ。ここの森の野ウサギを減らされたら不都合な者とか?」
「思いつきませんね。そんなのがいたとしても、いつも狩りにいくときは猟師のディモが一緒です。村の外の者があの猟果を子どもの僕のせいだとは、ふつう思わないでしょう」
「それはそうですね。それにその目的なら、雪が積もって猟を休んでいるこの時期に急ぐ必要があるとも思えない。
としたら、別の観点ですか。最近この領地の食糧事情改善の原因がウォルフ様だと、誰かが情報を掴んだ。これからこの領地が復興を果たそうとしている、その大本を断とうと考えた者がいる」
「まだ外向けにはっきり成果を出していない時点で、これを邪魔する必要のある者がいるでしょうか」
「その辺は何とも、ですな」ヘンリックが顔をしかめる。「王都の旦那様の周辺で、そんな動きが出てきてもそう驚くものではないかもしれませぬ。こう言っては何ですが近年、貴族の間での醜い足の引っ張り合いは、後を絶たないということです」
「考えたくもない、な」
膝の僕を揺すり上げて、兄は首を振っている。
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