第77話 赤ん坊、夢現《ゆめうつつ》に考える 1
ナディーネが僕の服装を整え、ザムの背に乗せてくれる。
カティンカはザムに口輪を装着している。
メヒティルトは、念のため常備している空の赤ん坊車を押してくる。
一応その車には、本を数冊乗せさせた。僕の暇な時間の読書用と、侍女たちの字や絵の書写用だ。
「主従揃って、他に気晴らしの当てはないのか?」とテティスが苦笑している。
部屋に戻って、僕は夕食。
カティンカが傍につき、ナディーネとメヒティルトは忙しなく立ち働いている。
それでも毎日この時間は、皆昼間よりかなり緊張が緩んで、一日の出来事の話を交わしていることが多い。
「貴族の当主の方々とお話し合いなんて、ルートルフ様、たいへんですよねえ」
「わたしだったら、緊張で倒れてしまいそうですう」
「その上、王太子殿下もいらっしゃるんですものねえ」
そんな話をしながら、ナディーネはテティスの顔を見た。
「それにしても、ルートルフ様の実態が貴族の方々に向けて公開されたということは、この先たいへんなことになるんじゃないですか?」
「うむ。しかも製紙や印刷技術の秘密を抱えている、という情報とともに、だからな。いつ何処でルートルフ様のお身柄を狙う輩が近づいてこないとも限らないことになる。我々としては、いっそう近辺に警戒を欠かさない必要があるだろう」
「ですよね。気を引き締めます」
ナディーネに続いて、同僚二人も真顔で頷いている。
とは言うものの、侍女たちや僕本人が心がけることは、一つだけだ。
「テティスの傍を離れない」
少女たちには、それ以上身の危険に関わる行動をとってもらっても、困る。
そんなことを、テティスを中心にみんなで再確認していた。
この日もまた、食事の後早々に床に着くことになった。
大きなベッドの中央に、一人横たわる。
すぐ脇の床には、穏やかなザムの息遣いがしている。
仰向けに、全身の力を抜き。目を閉じ。
緩やかに、とろとろと頭の中に疲労のようなものが沈み積み上がってくる感覚がある。
このまま眠りに委ねれば、それも自然と流れ消えていくのではないか、という気がする。
ただ、眠ればいい。
しかし、夕方の仮眠のせいか。なかなか眠りは訪れなかった。
仕方なく、いろいろな考え事が頭の中をかすめ、漂い回った。
とは言え、少し前に比べると格段に立ちはだかる憂いは減っている。
ここしばらく手がけてきた試行は実を結び、必要各所に説明を終えれば、あとは僕の手を離れることになっている。
残る引っかかりは、ある意味贅沢な願望だ。
せっかくここまで実現したのだから――。
――もっと、紙を普及させたい。
そもそもの発想は、貿易収支の都合ではない。
この世での実情、文化的記録、情報交流の圧倒的不足を、何とか改善の方向に進めたかったのだ。
そのためには、紙を一部の特権階級だけのものにしておきたくない。
実際に施政に関わる者はもちろん、学術研究者や各種産業従事者やに、日頃から記録や情報発信の習慣を根づかせたい。
ゆくゆくは、ベルシュマン子爵領のジーモンのような実労働に埋もれた市井の研究者といった存在の成果も、気楽に記録として残せるようになってもらいたい。
そのためには、大規模な製紙業の定着が必要だ。
例えば、ジーモンのような労働者が、毎日仕事終わりの夕刻に記録をつけられるように。
例えば、平民の子どもたちまで、遊びながら文字やお絵描きの練習ができるように。
そんな、はるか遠く見える理想に、何とか近づける方策はないだろうか。
実は、今回現実的に製紙の試行を考え始めた、二週間余り前。
久しぶりに夢の中に、『記憶』の人型が訪れてきた。
製紙の実際の手順について、大まかなところは頭に浮かぶ図鑑の記述と挿絵のようなもので掴むことはできたのだが。木の繊維のほぐし方、最後の紙漉きのコツ、などは実際の動きを見せてもらわないと分からない。
そこをまた、かの親切な『記憶』氏が自ら作業を行って見せてくれたのだ。
『あーー、クソ、無茶苦茶面倒なんだぞ、これ』
などとグチグチ
その合間に、さらに愚痴口調ながら、追加情報としていろいろ教えてくれた。
それによると。
どうも『記憶』の世界は、こちらより数百年から千年程度文明が進んでいるようなのだが。
そちらでも庶民が気兼ねなく紙を使用できるほどの普及には、自動で機械を動かす動力が開発されるのを待たなければならなかったらしい。
『記憶』の国でそうした機械が導入されたのは、百~百五十年程度前、とのこと。
その段階を過ぎても、さらに子どもが何も考えず落書きを書き散らせるようになったのは、せいぜい五~六十年前だろう、という話だ。
どう考えても、こちらの現状からは気が遠くなる思いしかない、ところだ。
そもそも、少し考えてみたら明らかなことだろう。
庶民まで気楽に使えるようになるために、どれだけの紙の生産量が必要か、すぐには見当もつかないが。
大雑把に考えて、最低、人口百万人の国で一日百万枚は必要なのではないか。
これが一桁少ない生産量だったら、貴族たちの独占か、せいぜい商人たちが大事な帳簿をつけるのに使えるか、程度のような気がする。
人口一人当たり一枚、と考えても、まだ子どもが書き殴れるまでの普及には至らないかもしれない。
全然何の根拠もないわけだが、目標生産量一日百万枚、として考えてみよう。
現在、僕が考案した製紙の方法で、職人一人当たり一日の生産量を多くて八十枚としている。
これが少し向上して一日百枚になったとしても、製紙作業従事者が一万人必要、ということになる。
人口百万人のうち、一万人。
――あり得ない。
これを、千人で一日千枚、と考えてもまず不可能だ。
一人一日千枚も無謀な目標だし、農業主体の人口百万人の国で製紙業従事が千人というのも無理な話だ。
紙がなくても人は生きていけるが、食料生産や軍備の人手がなければ国は滅んでしまう。
どう考えても、『記憶』が言うところの動力機械がなければ、実現しようがない。明らかな話だ。
まったく、
わずかながら慰めになりそうな情報が、『記憶』の話の中にあった。
ある程度現実だったらしい話と、まったく非現実の話と、なのだけど。
一つは。
『記憶』の国では二百年以上前、まだ機械生産が導入される前でも、そこそこ紙の普及があったらしい。
それはどうも、他国から見てかなりの程度驚嘆されるレベルだったとか。
役人や商人は記録に紙を用いていた。
紙に版画印刷したものが、庶民向けに販売されていた。
窓ガラスの代わりに紙を用いたものが、そこそこ普及していた。
それ以上、どの程度下々まで普及していたかははっきりしないようだが。
『今時点から勝手にその時代を想像した絵芝居の中では、庶民も子どもも使い放題だったように見えたり、印刷物をばらまいて売りまくる様子が描かれたりしてるのがあるが、まあ眉唾物だな』
とのこと。
それにしても。
そういったことの実現のために、当然製紙作業法の向上工夫や従事者人数の確保はあったのだろう。
それ以外にどうも、使い古した紙を回収して再生産に回すシステムがかなり確立されていたらしい。
確かに、そうして使い古しの紙を水に溶かして漉き直すことができれば、現状三日かかっている製紙が一日程度でできることになりそうだ。品質は最初の紙より落ちるだろうが。
この『古紙回収』のシステムは一考の価値がありそうだが、国民にそれを習慣づける上でかなりの困難も予想できそうだ。
悩むところ、ではある。
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