第78話 赤ん坊、夢現に考える 2
もう一つ。本来ならまったく参考にもならない話だろうけど。
『記憶』の世界では、こちらのようなまだ動力機械も開発されていない別世界を描いた
それらの
場末の旅館の宿帳でも使われるほどに。
平民の子どもたちがお絵描き遊びをするほどに。
不定就労者たちが書き置きに使うほどに。
製法不明の印刷物や書物が至るところに存在するほどに。
あちらの現実の歴史ではあり得なかったことが、まるで何事もなかったかのように、何の障害も存在しないように、実現しているということだ。
もちろん
しかし中には、軍事や経済や産業やといった部分にそこそこ現実的な考察や数的検討を加える物語になっているにもかかわらず、一方で紙の存在には何の配慮も考察も向けない、という状況が生じているものが、たまたま偶然と断じ捨てることもできないほど多数含まれているのだとか。
これには、興味惹かれる。
描いている対象は、こちらと同様の動力などがない世界。
それを創出しているのは、『記憶』と同時代の創作者。
もしかすると彼らは、過去を想像して世界設定するにあたり、実際の歴史ではあり得なかった紙の普及方法に思い当たって、それを描いているのではないか。
実際『記憶』も『頭のいいはずの彼らなら、俺が想像も及ばないことを考えているのかもしれんな』と肩をすくめていた。
ただ、中には――というか、かなりの大多数で――そういった
そういった魔法の類いが、紙の製造や普及に役立っているのかもしれない。
だとしたら、そんな魔法の存在しないこちらの参考にならないわけだが。
しかしそれもなかなか考えにくい。
さっきの数字、人口百万人の国で考えるとして。やはり一日百万枚の紙を製造するには、大雑把に想像して、
一日百万枚の製紙魔法を使う魔法使いが一人で、毎日働く。
一日一万枚の製紙魔法を使う魔法使いが百人で、毎日働く。
のどちらか、といった辺りになるだろう。
まさか、一日千枚の製紙魔法を使う魔法使いが千人いる、という状況は想像しにくい。
いやまあ一応、その『千-千』の場合も含めて。そんな力を持った魔法使いに、毎日製紙業に従事させるような判断を、国の為政者が下すとはなかなかに考えにくいと思うのだ。
魔法使いの力を使いたい場面と言えば、どう考えても軍事や医療やといった、国の存亡や人の命に直結した方面が優先だろう。
くり返しになるが、紙という存在は特殊なのだ。
衣料品や工芸品などのように、一度作成したらしばらく大丈夫、というものではない。
食料品などのように、ある程度放っておいても自然に育ってくれる、というものでもない。
どうしたって人の手を煩わせて、ほぼ毎日一定量以上を作り続けなければならないのだ。
しかもふつうの場合、使い慣れたら手放せないとはいうものの、別に紙がなければ国の存亡や生命に危険が及ぶということはない。
グートハイル王国の現状のような、国家存亡の機に直面した貿易収支改善の切り札になりそうな事例など、例外中の例外だ。
貴重な魔法使いの手を、そんな毎日製紙に費やすなどという判断、優先順位としてまずあり得ないだろう。
せいぜいあり得るとしたら、大魔力を持つ全能魔法使いが、他の重要任務をこなしながら、年に一度だけ一瞬で三億六千万枚の製紙を行う、といった設定だろうか。
――それはそれで、見てみたい気もする。
厳かな詠唱の元。
煌びやかな雷鳴とともに。
一瞬にして出現する、三億六千万枚の紙の束。
『記憶』の世界では、五百枚一束で販売されているのが標準的なのだそうだが。
それが、七十二万束。
倉庫一つに収まるのか、想像もつかない。
それを、一瞬で。
――いや別に、一瞬じゃなくても、一年分一度じゃなくてもいいんだけど。どうせ想像するなら、派手に、ということで。
しかしまあそんな超絶すごい設定なら、
特に強調した描写がされていないのなら、そのような特殊魔法使いの存在を想定していないのだろう。
おそらく創作者たちの頭の中には、彼らの実際の歴史とは異なるながら、彼らの現実から振り返れば特に強調描写も必要としない程度常識的、簡素、と認識される紙の普及の方法があるに違いない。
――そんなものがあるなら、ぜひ知りたい。
動力機械も魔法も使わずに、庶民レベルまで紙を普及させる方策。
そういったものが存在するなら、心の底から知りたいと思う。
恥も外聞もない、藁をも掴む思いで、僕は知りたいのだ。
――どうか、教えてほしい。
僕の全財産をはたいてもいい。
――手持ち、ほとんどないけど……。
両手、額を大地に
――そのままころり、転がってしまいそうだけど……。
とにかく……
心底……知りたい……
……何とか……
……なんとしても……
…………どう、にか…………
…………
…………
ぼんやり、不明瞭な頭の中。
ついさっきまで、何やら得体の知れない思いを巡らせていた、という気もするが。
思い出せない。
ただ。
気がつくと。
僕は――歩いていた。
――はあ?
『何じゃそりゃあ!』と叫びだしたい気にならないでもないけど。
まちがいなく、足は動いている。
とっこら、とっこら、ゆっくり、ぎこちなく。
それ自体、問題はない――ない? かな?
しかしそれより、問題なのは。
足の動きが、自分の意に任せられないこと、だった。
歩こう、と自分で考えているわけではない。
なのに、とっこら、とっこら、足は前に進んでいる。
――夢を見ている、のか?
思ってはみたけれど。
妙に、足の裏に伝わる感触は現実的だ。
身体の他も、思うに任せないけれど。
何とか意志を集め、苦労して、目だけは開くことができた。
暗い。
かすかに見える床は、豪奢なカーペットのようだ。
してみると、後宮の中、何処かの廊下、なのだろう。
とっこら、とっこら、足は進む。
両側の壁、扉は、見慣れないもの、のようだ。
してみると……。
とっこら、とっこら、進む、進む。
自分の意志では、止められない。
進む、進む。
今にも前につんのめり、伏せ転びそうな危うさのままに。
進む、進む。
後ろからかすかに、別の足音がついてくるような。
とっこら、とっこら。
何か、何処かから心引き寄せられるような。
とっこら、とっこら。
やがて、案じていたように。
足がもつれかけ、僕は横手へたたらを踏んでいた。
と、と、と両手を泳がせ。
ちょうど目の前、木の扉に、頭を打ちつける。
静寂の廊下に、鈍い音が染み渡る。
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