第23話 赤ん坊、塩湖を見つける
「な?」
「どしたの?」
「しょっぱい」
「え?」
「塩水――え?」
大慌ての様子で、奥の湖に目を向ける。
見渡す限り果てがない、その地中の大きな湖が、いわゆる塩湖というものだったらしい。
『火山の近くでは、あり得る』と『記憶』が告げてくる。
「このオオカミ、それを知っていたのか」
「かも」
もしかすると、怪我して弱って塩分を必要として、ここへ来た。その目的は達したが、体力が尽きてここで動けなくなった、そんなことなのかもしれない。
「まあ、怪我もいくらか治まったようだし、空腹も満たした。当分不満はないだろうな。心置きなく、あとは自然の摂理ってやつに任せることにしよう」
「ん」
頷き合って、兄は入口の方へ向き直った。
野ウサギ一羽を失ったが、今からならまた補充もできるだろう。
背負った僕を揺すり上げて、歩き出した。
入口までは、すぐだった。さっきのような荘厳な湖がこんな近くにあるとは、すぐには信じがたいほど。
兄も「こんな湖のこと、誰からも聞いたことがない」という。
誰も知らない存在なのだろうか。
だとしたら、夏場には周りの多くの木々の葉で隠されている、ということが原因の一つなのかもしれない。
もしかすると、猟師の知識でこの辺りはオオカミが多いというのがあって、近づかないように申し合わせているということもありそうだ。
そんなことを話しながら、僕らは外に出た。
放置していた野ウサギ一羽の袋は、そのままになっていた。
それを拾い上げながら、「おや」と兄は周囲を見回した。
何かの気配を、僕も同じく感じていた。
「何だ?」
「……あ」
後ろを振り向いて、すぐにその正体が分かった。
白っぽい毛並みのオオカミが、僕らの後ろからひょこひょこと歩いてきていたのだ。
怪我をした右前足だけわずかに浮かせて、残りの三本足を器用に運んで。
明るい外に出ると、その毛並みは汚れてはいるものの、銀色と呼んでもよさそうなツヤを持っているようだった。
やはり、オオカミとしては小さく思われる。もしかするとまだ、子どもなのかもしれない。
そんな観察をしているうち、警戒の素振りもなく近づいてきたオオカミは、兄の足元にうずくまった。
そのままふんふんと匂いを嗅ぐように、鼻先を足に擦りつけてくる。
「……まさか」
「にいちゃ、なつかれた?」
「……かもしれない」
怪我の治療と餌の提供で、すっかり仲間認定されたのか。
野生の獣として、そんな安直な信用いいのかよ、という気がしてしまう。
「もしかして、これが目当てか?」
兄がもう一羽の野ウサギの袋を鼻先に寄せてやっても、オオカミは軽く首を振って興味を見せない。
まあ、さっきの一羽で十分すぎるくらい満腹状態だろう。
そうしてみると、餌に釣られてついてきたというわけではないことになる。
数歩兄が歩き出してみせると、当然のようについてくる。
「ついてくる、みたい」
「しかしなあ……。村まで連れていったら騒動になるぞ」
めったに人を襲わないという認識ではあっても、やはり人間にとって恐ろしい相手と思われている獣だ。
森に入る猟師もできる限り彼らとの遭遇は避けるようにしているらしいし、この地域の子どもには「森には近づくな」という戒めの象徴になっているはずだ。
うーん、と兄は考え込み、やがて首を振った。
「まあ、無理矢理追い払うのも面倒だ。とりあえず森を出るまでついてくるつもりなのか見ながら、好きにさせよう」
「ん」
「で、お前森の中を歩くつもりなら、その傷守っておかないと悪くしかねないぞ」
苦笑で、兄はしゃがみ込んだ。
手拭き用の布を引き裂いて、前足の傷上を縛ってやる。
オオカミは呆れるほど柔順に、その処理を受けていた。
「それとさ、本当にこいつがついてくるなら、大人たちに見せて相談したい点があるんだ」
「なに?」
「こいつのこの傷、もしかすると矢を受けた痕なんじゃないかと思う」
「や?」
「本当に矢だとしたら当然、人間に攻撃されたことになる。だけど最近、ディモや村の者がオオカミと出会って矢を使ったなど、聞いたことがない」
「だね」
二日に一度ペースで狩りに来ているのだ。そんなことがあったら必ず、兄にその報告があるはずだ。
「オオカミの数が減っている疑惑がある。その中で、この村以外の者がオオカミを攻撃しているとしたら――」
「もんだい」
「だよな」
確かに、大人と相談すべき事案かもしれない。
兄が歩き出すと、やはり当然の顔で彼はついてきた。
木々に囲まれた細い道を、ひょこひょこ器用に三本足で。
途中、僕らがもう一羽の野ウサギを生け捕りにする猟をしていても、傍で黙って見ている。
やはり満腹だと、他の動物に関心はないようだ。
そのまま森の出口へ向かっても後に従ってくるので、好きにさせることにした。
「野ウサギ二羽だけのつもりが、えらい大きな拾い物をしたことになるな」
「それと、だいはっけん」
「何だ」
「しおのみずうみ」
「ああ、あれが?」
「しお、つくれる」
「あ、そうか!」兄は叫び声を上げた。「すごいことだったんだ、これ。領地の食生活が変わる。それにうまくすると、すごい売り物になるかもしれない」
「ん」
「これは、ヘンリックに相談だな」
気が急いてきたらしく、兄は足を速めていた。
森を出て、防護柵の出入口まで来ると、すぐ中にディモがいた。
兄の顔を見て、慌てた様子で駆け寄ってくる。
「ウォルフ様! 一人で森に行ったと聞いて心配――やあ、何だそりゃ!」
声が悲鳴に変わったのは、当然オオカミの姿を見たためだ。
「ウォルフ様、危ない! そいつ小さいけど、オオカミでさ!」
「だよな、やっぱり」
「やっぱりって、そんな呑気な」
「森で見つけて怪我してたの薬つけてやったら、懐かれたみたいだ」
「そんな、あなた。あっさりと……」
「それよりディモ、ちょうどよかった。これ、見てくれないか」
相手が混乱しているときは、強気で話題を変えてしまうのもテクニックのうちだ。
兄はオオカミに屈み込んで、縛っていた布を解いた。
相変わらず獣は、柔順にされるがままになっている。
「これ、矢を受けた痕じゃないかと思うんだが、どうだろう」
「矢、ですか?」
少し警戒の素振りながら、ディモは兄の隣に屈み込む。
まじまじと傷を覗き込んで、
「まちがいねえ、矢ですさね。矢尻が一度貫通した痕だ」
「やっぱりそうか――村でオオカミに矢を射たという奴の話聞いてるか?」
「聞いてないです。最近じゃウォルフ様と俺たち以外、森に入っていないはずさね」
「だよな」
傷に布を巻き直しながら、兄は難しい顔になっている。
意味が分かったのだろう、ディモも同様に顔をしかめていた。
「とりあえずこいつは、屋敷に連れていく。ディモは、村に本当に矢を使った者がいないか、改めて訊いておいてくれないか」
「かしこまりました」
真剣な顔で、ディモは頷く。
本来なら「一人で森に入った」「危険なオオカミを近づけた」という点でお説教事案なのだろうが、すっかり兄のペースに巻き込まれてしまった形だ。
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