第45話 赤ん坊、立つ

 翌日には、またロルツィング侯爵に依頼した傭兵が三名到着して、賊の遺体を王都に向けて運んでいった。

 数日後届いた報告によると、賊の正体は『赤目』の通称で知られる闇社会で有名な殺し屋だという。

 王都の警備隊が勢い込んで捜査を開始して、間もなくそのねぐらが発見できそうだということだ。


 我が屋敷の生活は、僕が誘拐された前の状態を継続している。

 賊を一人征伐したからといって、警戒を解くわけにはいかない。

 相手がさらに手強い手駒を送り込んでこないという保障は、どこにもないのだ。

 さらに言えば、一回目のこの家への侵入時、賊は二人だった。一人が今回の殺し屋だったとして、もう一人は情報収集担当だったのではないかと想像される。

 そちらの任務がまだ継続しているのではないかという予想のもと、村への侵入者についてますます監視を強めているところだ。

 たぶんまだしばらくは、この警戒態勢を続けなければならないだろう。


 パンパカパーン!

 朗報です。

 ついに僕は、つかまり立ちができるようになりました。

 このたび、十二の月の三の空の日。医師の出張定期検診が行われた。

 僕についての診断は、ほぼ不調が消えている、というものだった。

 ひと月あまりの日光浴と栄養摂取が、功を奏したらしい。

 その診断に加えて、医師の忠告に従いながら僕の『立っち』訓練が行われたのだ。

 結果、その場で無事立つことができましたとさ。めでたしめでたし。


「見て見て見て、立ってる。ルートルフがちゃんと、立ててる!」

「ルート様、ご立派ですう!」


 母や家人たちの喜びようは、言うまでもない。

 ついでながら、そのまま調子に乗って足を運ぼうとしたら、見事にもつれさせてひっくり返ってしまった。

 やはり訓練は地道に一歩ずつ進めるべきと、身をもって悟った次第。


 その後、一日数回という制限付きながら、何度かソファの縁に掴まっての立っち練習。一人がけソファの右端から左端くらいなら、足を運べるようになった。

 次には、ベティーナの差し出す両手に掴まって、前向きに歩く練習。七、八歩は進めるようになったが、やっぱりそのくらいで前のめりにつんのめってしまい、子守りに抱きかかえられて終了する。

 少しずつ進歩しているし、つき合ってくれているベティーナにはありがたいと思う。ただ何となくだけど僕には、『何か違う』感覚があった。

 もっと自分の意志で進み止まりを見極めたい、バランスを崩しても自分で持ち堪えたい、といったような。いや、贅沢な希望だって、分かってはいるのだけど。

 そこにありがたい打開策を出してくれたのは、ザムだった。

 立ったザムの後ろから、両手でお尻に掴まる。僕が前進の意志を伝えると、歩調を合わせてゆっくり従ってくれる。止まれの希望も瞬時に伝わる。何度もお馬さんを務めてくれた経験で、これ以上なく僕と意志が通じ合っているのだ。

 さらに、足をもつれさせかけて両手に体重を集めても、しっかり受け止めてくれる。もし手を滑らせて僕が転んでも、過保護に手を貸すことなく、自分で起き上がるのを待ってくれる。疲れて足が動かなくなったら、背を低くして僕を乗せてくれる。

 何とも理想的な、『あんよ訓練』のパートナーなのだ。

 周りの家人たちも、面白がって見守ってくれていた。

 初めて見たときぎょっとして口を閉じられなくなっていたのは、ベッセル先生だけだ。

 いやこの点、家の者たちの常識の方がおかしくなってきている、という気がしないでもないけど。


 なお、ザムはこの家へ来てからひと月程度で、一回り身体が大きくなっていた。

 もとがオオカミの小型版だったのが、中型程度になった印象だ。

 そのため現段階で好都合なことに、ふつうに立って僕が肩の高さでつかまるのにちょうどの体高になっている。

 怪我も完全に治っているし、全身に力が漲って、身体能力は大人のオオカミと遜色ないのではないかと思えるくらい。

 一度兄が悪戯半分跨がってみたら、ちゃんと全体重を支えて見せたほどだ。まあ長時間は無理だろうし、実際確かめてみてはいないけど。

 というわけでとにかく、僕は強力なパートナーを得て、日に日に歩行距離記録を更新していった。


 王都の父からも、継続して朗報が伝えられてきた。

 黒小麦パンとコロッケの販売は引き続き好調で、年末の『年送り祭り』で賑わう予定の大広場に屋台を出して大々的に売り出す計画、とのこと。

 塩とセサミも、少しずつ販路の確保ができてきた。

 どちらも我が領地が新産地になっていることを極力秘匿したいし、既得権益との衝突は避けたいので、父としても最大限慎重に事を進めているのだ。


 製塩については今までのところ、南の海に面したベルネット公爵領の独占産業になっている。男爵が公爵に喧嘩を売るような形で産業を始めるなど、首がいくつあっても足りない暴挙だ。

 その点で、父は慎重に熟慮した。結果、馬鹿正直すぎるのではないかと思われるほどの正攻法に出た。ベルネット公爵に秘かに面会を請い、すべて正直に打ち明けたのだ。

 北の地で塩が採れるという新事実に、公爵は仰け反るほどに驚愕していたという。それでも、意外なほど好意的に受け止めてくれた。

 公爵領が十分に裕福なことと、ベルネット公爵という人物が国全体の利益に目を向ける度量の持ち主だということが、幸いしたようだ。というより、父がその点の信頼を抱いて打ち明ける決心をしたということなのだろう。

『金持ち喧嘩せず』と、『記憶』が分かったような分からないような囁きを伝えてきた。

 まずはベルシュマン男爵領の窮状を当然よく知っていたので、新産業の必要を理解してくれた。

 また公爵は、国全体を考えると今までのような寡占で高価になっている塩の流通に危惧を持っていたという。塩は人間の生存に欠かせないもの。それを一地域の生産だけに頼るのは危険だ。極端な話、もしベルネット公爵領を他国に奪われるようなことがあったら、我が国はその国に頭を下げないと存続できない事態になってしまう。

 ベルシュマン男爵領の塩の生産量がすぐその事態を改善する規模になることはあり得ないが、すくなくとも国の目指す方向性として悪くないことだ、と言う。

 ただ、今すぐ塩の流通市場に大変革を持ち込むのは、国内外への影響を考えると危険だ。当面は公爵領産の塩の流通にそのまま区別せずに紛れ込ます形から始めてはどうか、と提案された。

 南の海での製塩は、冬場には出荷量が減少する。国全体を見ると、その不足分をまず補うという利点を考えたい意味もある。

 父としては、従来からの価格水準で販売が始められたら何の不服もない。喜んで、その申し出に同意した。

 だがそれも、我が領地産の塩の品質が低く、公爵領産のものまで評価を落とすようだと、問題がある。

 当然のことながら、契約を結ぶ前に現物を持参して専門家に検証してもらうことになった。

 その結果、驚くべきことが分かった。我が領地産の方が、わずかながら質が高いという結果が出たのだ。

 原料となる塩水の差か、製法の問題か。この点でも、父と公爵は腹を割って情報交換をした。

 原料の差は、すぐには判断できない。塩水の煮詰め方と乾燥に回す見極めは、差がないように思われる。

 しかしそこに加えて、腹をくくった父が打ち明けた情報に、公爵は目を瞠ったという。

 最後の乾燥に、加護の『光』を利用している、という事実だ。

 父としても公爵の度量に感服し、国のために役立つならこの点の秘匿はやめよう、と判断したわけだ。

 興奮気味に公爵は、自分の領でもそれを試してみようと言い出したらしい。

 そのような工夫でさらに品質を向上できるようなら、将来的には品質の低い安価な塩ともう少し高級な品との差別化ができるかもしれない、という考えだ。

 双方で今後も研究を続ける、ということで両者は合意した。


 一方で、セサミについてはもっと事情が複雑だ。

 既得権益が、他国からの輸入業界だからだ。

 こちらについては喧嘩を売る相手が外国で、へたをすると国際問題になる。

 ここでも父は、ほとんど正面突破の方法をとった。

 上司の宰相に内諾を得た上で、ほぼ独占販売をしている輸入業者と交渉をしたのだ。

 当然ながら業者にとっても、取引量が増えること自体は悪い話ではない。問題は、輸入元の隣国ダンスクを刺激する心配だけだ。

 結果、今流通しているセサミの価格水準に影響の出ない量を見極めながら、取り引きを始めることになった。

 なおこちにも、我が領地産のものの品質を検証してもらったところ、輸入物と差がないことが分かった。

 価格水準に影響の出ない量、ということで計算を進めたところ、来年の収穫期までの間に今の我が領の在庫すべては出荷できないことが分かった。

 それならいっそ、セサミをそのまま出荷するのは半量程度に抑え、残りは付加価値を高めた加工に回そう、という発想になる。

 業者に打診すると、セサミから採れる油の輸入はこれまでのところない、という。

 父は、セサミ油製造に本腰を入れることにした。

 父の、というよりヘルフリートの調査により、製油産業自体はダンスクに存在することが分かった。そこで使われている油を絞る道具の概観を入手できた。その情報をもとに、王都で道具を再現したい、という。


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