第50話 赤ん坊、勉強させる 2

 ほぼ読みはできるようになったところで、午前の残りは一文字ずつ書く練習をした。

 一度一通り書いた後は、それぞれに自分の名前を書かせる。

 書く方はさすがにこの日だけですべて覚えきれないだろうが、石盤と文字表は孤児院に寄付するので、これからも練習を続けるように話す。

 昼前の勉強はそれくらいにして、昼食を取りに行く当番とともに、王宮裏口へ戻る。空はずっと小雨に留まっているのが、ありがたい。

 執務室に戻って、こちらも昼食。

 植物見本の処理も終わって、とりあえずここで急ぐ案件もなくなっている。侍女たちのためにもなるはずなので、この日はこのまま全員で勉強に関わる予定だ。


「ルートルフ様、午後からは何をするのですか」

「さんじゅつ」


 答えると、ヴァルターは顔を曇らせた。


「石盤と違って、計算盤は融通できないのですが」

「いらない」

「いや、しかし……」

「なくても、けいさんできるようにする」

「できるのですか?」

「そういえば、へいみんに、べんきょうのきかい、すくないの、けいさんばんがてにはいらないせい、ある?」

「ああ、それは関係あるでしょうね。計算も勉強できるの、教師を雇えて計算盤を持っている、商人などに限られるようです。私も親が商人の知り合いに頼んで、そこの子と一緒に、計算盤を借りながら、教師に教えてもらったものです」

「ふうん」


 ナディーネとカティンカに訊ねても、地方の村では文字も計算も習う機会はないということだ。

 親に教えてもらったのは、数のかぞえかた程度だったらしい。

 二人とも現時点では、一桁の足し算ができるかどうか、というところのようだ。


「じゃあ、ふたりとも、ごごは、せいと」

「先生は、誰が?」

「ぼくがやる、しかないか」

「やっぱり。というか、ルートルフ様は本当に、計算盤がなくても計算できるのですか?」


――なくてもというか。計算盤の方こそ、使えない。


「ばるた」

「はい?」

「にっとう、ひとり300やーぬ。8にんで、25にちぶん、いくら?」

「え、え? ちょっと、待ってください」


 慌てて、机の中に計算盤を探しているようだ。

 そちらに、僕は掌を向けて制した。


「60000やーぬ」

「はい? それ、今計算したんですか?」

「8かける25が200、しってれば、300かける200で60000」

「は?」


 これには、テティスも含めた部屋の四人、全員ぽかんと口を開けていた。

 正直、僕の方がびっくりだ。


――やっぱり……。


 この国の算術レベル、これくらいで仰天する程度らしい。

 確かヴァルターは、学院の算術の成績で、神童と呼ばれる王太子と首位を競っていたという話だったのだが。

 ここでの算術の力というのは、そのまま計算盤の操作能力にすぎないということなのだろう。

 思わず、溜息が零れてしまう。


「あるていどの、あんざん、ようりょうつかめば、できる。そのうえで、ひっさん。けいさんばんより、はやい」

「筆算、とは?」

「あとで、おしえる」


 宣言した通り、午後の作業小屋では赤ん坊車に乗った僕が前に座って、算術の指導を行った。

 ナディーネとカティンカは、生徒として座らせる。

 全員に、一桁足す一桁の足し算を適当に作って答えを問うと、できたりできなかったりだ。

 それを、順に1+1=2から9+9=18まで、五枚の石盤を使ってヴァルターに書かせ、みんなの目の前に立てて見せ、「あんきしろ」と命じた。

「ええー?」と不満の声は上がるが、無視してやらせると、意外と覚えられる。

 何しろ、大半は無意識のうちにすでに頭に入っていることなのだ。

 覚えるための時間を置いた少し後、矢継ぎ早に訊いていくと、だいたい答えられるようになっている。


「2たす6は?」「8」

「3たす8は?」「えと、11」

「5たす7は?」「13、いや、12」


 問いを重ねるごとに、答えが早くなってくる。まちがいも少なくなる。

 さらに隣同士で発問役と回答役を交代しながら、対戦ゲーム感覚の応答を一刻あまりも続けさせると、ほとんど皆即答ができるようになっていた。


 小休憩を置いた後、立てた石盤に二桁の足し算の筆算を書いて、説明する。

 一桁の計算が瞬時にできるようになっていれば、こちらも難なくできることを知って、みんな前のめりに食いついてきていた。

 ヴァルターとテティスも呆気にとられて見ているのが、面白いというか情けないというか。

「きみたち、いままで、どうやっていたの?」と、真剣に問い糾したいところだ。

 当然「計算盤で」と答えが返るのだろうけど。道具がないとこれを計算できないって……。


「このようりょうでやれば、どんなおおきなかずでも、けいさんできる」

「はい!」


「こんな面倒なこと覚えたくない」と言う者は、一人もいない。

 工房の先輩でもなかなかできている者は少ないはずだが、これを身につければ自分の有利になることをみんな実感しているのだ。


 何人か指名して前に出て石盤で計算をさせた後、二十問ほど問題を出して全員に席で考えさせる。

 その間にこちらでは、二枚の筆記板を使ってヴァルターに、一桁のかけ算を1×1=1から9×9=81まで、順に書かせた。

 さすがにこれは、ヴァルターとテティスも暗記できている。

 ただその上で、二桁のかけ算の筆算を教えてやると、二人とも目の玉が飛び出そうな顔になっていた。


「こんなに簡単にできてしまうのですか?」

「ん」

「確かにこれなら、計算盤はいりませんね」


 二人の納得はもらえたけど。このかけ算の表はとりあえず先んじて用意しただけで、子どもたちに使うのはまた後日だ。

 今日のところは、文字の読み書きと足し算の完璧な習得を目標とする。

 これからしばらくは、作業の前後を使ってこれらが覚えられているかの確認をしていくことにしようと思う。


 二十問の計算が全問正解できた者から、この日の学習終了とする。

 残りの時間は、班ごとに覚えたことの成果を実感させた。

 二班には、ナディーネを手本に、現在作業に使っている材木の名称を読み、板に筆記させる。これからも、区分して保管するために使うのだ。

 三班には、カティンカも参加させて、これまでこなしてきた課題の中に使われていた文字を読ませる。動物や植物の名前を見つけたりして、三人で喜んでいる。

 一班には、僕が横について、車軸部品の寸法を測って記録させた。これが用意されていれば、鉄工職人との打ち合わせが楽になるはずだ。

 ついでに、こうした場合には小数が使われることもある、とイルジーが相談してきたので、小数の足し算の方法も教えてやる。

 算術に関しては、イルジーがが突出して理解が早いようだ。

 なお、長さを測る道具としては、一マータ定規と二百ミマータ定規がよく使われているそうだ。どちらも木製で、一ミマータごとの目盛りが刻まれている。

 そういう話をしているとテティスが懐を探り、変わったものを取り出して見せてくれた。

 騎士や兵士の多くは、一マータの長さの革紐を常備しているという。もちろん、野外での活動などで必要になる場合のためだ。気の利いたものは、それに百ミマータの目盛りをつけていることもあるらしい。

 さらにかなり長い革紐も持っていて、長いものはそれで測った上、一マータ紐何本分かという判断をすることになる。

 ちょっとした、豆知識だ。


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