第37話 赤ん坊、打ち合わせをする 1
記憶的には初めてなのだけど、どこか懐かしい匂い、という気はする。
赤ん坊の抱き方は、あちこち不必要な力が籠もって、お世辞にもうまいとは言えない。母とは比べようもないし、最近のベティーナや兄と比べても快適さは下だろう。
それでも妙な、理屈抜きの心地よさのようなものはあって、当分このまま甘受していたい気になってくる。
いちおう印象を悪くはしたくないので、僕はきゃっきゃとご機嫌の声で、父の頬に手を伸ばした。わずかに髭が伸びていて、手触りは、ただ痛い。
「おお、父が分かるか、分かるか。よい子だ」
とたん、遠慮なしの力で抱きしめられ、じょりじょりと頬を擦りつけられた。
――ちょっと父上、痛い。
よけいなサービスはしない方がよかったかもしれない……。
見下ろすと、兄が同情溢れる視線を向けてくれていた。
「家族とゆっくりしたいのは山々だが、時間が惜しい。まずは情報交換が必要だ。ヘンリックとウォルフ、執務室に来い。あと、ヘルフリート、お前もだ」
「はい」
しばらく忘れていた玄関方向を見ると、初対面の顔が三つ並んでいた。
まだ若い痩せぎすの男が一人、それより年下らしいがしっかりした体格の男女が一人ずつ。今返事したのは、痩せぎすの男だ。
腰に剣を下げ、防具らしい装備の男女は、明らかに護衛職だろう。
「護衛の二人にはウェスタ、熱い茶を飲ませてやってくれ。家の者への紹介は後に回すが、二人のとりあえずの任務は、この屋敷の警戒だ。ランセルからくわしい話を聞いて、始めていてくれ」
「は」
「かしこまりました」
「それと、礼が遅れてすまぬ。村を代表してここの警固に当たってくれているということだったな。感謝している」
「もったいないお言葉で」
二人の返事を背を聞いて、さらに父はその向こうの武道部屋前に並ぶ村民たちに声をかけた。
ひとしきり見渡して、大股に歩き出す。
その遠ざかる脇で「あれ」とベティーナが小さな声を漏らす。
急いで追いついてきたヘンリックが問いかけた。
「その旦那様、ルートルフ様は――」
「短い滞在時間は貴重だ。片時も放さん。今夜は抱いて寝るからな」
「はあ……」
何を言っても無駄、と悟ったらしい達観の溜息。
足どりを緩めず父は、いつもはヘンリックが仕事をしている部屋に入っていった。
中央にある各辺二人ずつが並べそうなほぼ正方形のテーブルに、父は兄を隣に招いて座る。それと直角の向き、両側に向かい合ってヘンリックとヘルフリートが席に着いた。
当然のように、僕は父の膝の上だ。
「とにかく、何よりも捨て置けんのは、ウォルフが襲撃されたという件だ。改めてくわしく聞かせてくれ」
父に請われて、ヘンリックと兄が代わる代わる説明する。
僕の『光』の件だけは除いてほぼすべて、聞いていても欠けた情報はないと思われる。
「何と。ウォルフの防御とヘンリックの駆けつけるのが少しでも遅れれば、取り返しのつかない事態になっていたことになるのか」
「さようでございます」
「ウォルフ、怪我は大事ないか」
「もう傷は塞がりました。痛みはありますが、動かせています」
「そうか。くそ――はらわたの煮えくりが、止まらぬ」
――父上父上、苦しいから。赤ん坊のお腹の柔らかさ、考えて。
ぺしぺしと腕を叩くと、父も気がついて腹に回した手の力を緩めてくれた。
「とにかくも、ウォルフはよくやった。ヘンリックとランセルも、よくこの家を守ってくれた。礼を言う」
「いえ。ウォルフ様に怪我を負わせただけで、反省するばかりです。もっと配慮のしようがあったのではないかと」
「いや、二階の窓を叩き割っての侵入など、想像もできぬ。今後はそれも考慮して守りを固めねばならんが」
一度息を落ち着け、父は興奮を鎮めている様子だ。
「それにしても賊はウォルフの命を狙った、それでまちがいはないのだな?」
「はい、確かに『命をもらう』とはっきり言っていました」
「くそ……」
「それにしても屋敷の者たちと話し合っていて、先にキッチンに侵入しようとして失敗し、すぐ戻ってきてウォルフ様の命を狙う、という順序が理解できない、という疑問になっておりました」
「ふむ……確かに理解しがたい」
考えながら、父はふとヘルフリートの方に目を向けたようだ。
痩せぎすでおよそ戦闘向きに見えないこの若い男は、王都で父の側近、秘書のような役目をしているのかと想像される。
「その辺も含めて一つ、な……。もしかするとウォルフが襲われた原因、私にあるのかもしれない」
「旦那様に、ですか?」
「いや、な。ここのところ領地から次々朗報が届き、どれもウォルフの働きが関係しているというので嬉しくなって。思わず周囲に息子自慢をしてしまったのだ」
「はあ」
「自分ではその気はなかったのだが、傍で聞いていたヘルフリートの感想では、ウォルフは我が領になくてはならぬ宝、今後ますます領地の発展に寄与するだろう、と。まあまちがいではないのだが、他の領主連中の虚栄心を刺激するような、そんな論調になっていたようだ」
「旦那様のせいばかりではありません。父からの報告に、多分にそんな主張が含まれていたせいもあるかと存じます」
初めて、若い男がぼそりと発言した。
なかなかに、ふだんから遠慮なく主に意見を述べていることを思わせる。
それと、父?
話の流れと向かいに上げられた視線からすると、このヘルフリート、ヘンリックの息子になるらしい。
ヘンリックはやや顔をしかめて、頷いた。
「それは、多少……あったかもしれませぬ」
「それはともかく、我が領の勃興をよしとしない向きには、ウォルフ様の存在が邪魔と考えるきっかけになった可能性はあるかと存じます」
「ということだ」苦々しげに父は頷いた。「それとそんな自慢話では、さすがにまだ塩やセサミのことに触れていない。例としてはもっぱら、黒小麦やゴロイモの利用法を開発、という点を挙げていた。まだ詳細には触れずに、だな」
「あたかも、今にも一大産業に結びつきそうな論調でしたね」
「ヘルフリート、言葉は控えよ。しかしそうすると旦那様、我が領の立て直しの兆しは黒小麦とゴロイモの調理法にあり、と王都の貴族の中には伝わっているということになりますか」
「うむ」
「そうすると、その秘密を探ろうとこの屋敷に忍び込んだ場合、情報はキッチンにあると考えて不思議はないと」
「そういうことになるな」
「なるほど。そういうことならば、賊の目的はその情報を盗むこととウォルフ様の命、この二つがそれほど優劣なくあったと考えられる。ウォルフ様を襲うことを優先せず、まずこっそりキッチンを探り、その後屋敷中を起こす騒ぎになろうと構わず、手早くウォルフ様を狙う、という順序もあり得ることになりそうですな」
「そうだ」
父に続いて、一同何度も頷いている。
そうしてから、兄が父の横顔を覗いた。
「それにしても父上、黒小麦とゴロイモにしてもまだ調理した現物が王都に届いたわけでもなく、この屋敷が狙われるには早すぎるように思われます。不確かな噂段階でも我が領の立て直しを邪魔したいと考えるような者が、いるのでしょうか」
「うむ……」
「お訊きしにくいことですが。我が領の借金のかたに、東の森を含む土地が絡んでいるというのは、事実なのでしょうか」
「……耳が早いな。確かに、その件が関係しているのではないかという疑いを、持っている」
断言はしないが、事実ではあるらしい。
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