第45話 赤ん坊、執務環境を整える
翌日の早朝、約束通りテティスは女官長に呼ばれて出ていった。
部屋を離れるのは異例なので、「決めた合図のノック以外はドアを開けないこと」と、侍女たちにくり返し言い含めていく。
女官室で、各部屋最低一人ずつの侍女と護衛が呼ばれた中、紹介を受けたということだ。
出勤は、カティンカが僕に伴うことになった。
決めた通り、ナディーネが部屋の片づけをしてから、遅れてくることになる。
この日の配置はただ、カティンカが執務室の場所を知らないという理由のためだ。翌日からは一日交替で入れ替わることになる。
執務室でヴァルターにカティンカを紹介し、執務室勤務の認可は得ていることを話す。
その流れでテティスから前日の女官長との面会の件を説明すると、ヴァルターは一瞬、呆けたような表情になった。
「王宮庁を通した認可が、覆りそうになった? そんなことがあり得るんですか!」
「後宮の慣習は知らないがな。おそらく、外の王太子殿下よりも中のやんごとなき方の意向の方が尊重される傾向にあるのだろう」
「そんな――これは、殿下のお耳に入れるべきでしょうかね」
「おさまったから、もういい。あっち、かんがえたくない」
「お気持ちは、よく分かります」
ナディーネが到着したので、こちら執務室でも新体制の流れを確認する。
ここでは基本、侍女たちはヴァルターの指示に従うこと。
ヴァルターは二人に、文字の指導を行うこと。
この関係で、ヴァルターから二人への呼称には、敬称はつけないことにする。
カティンカの紹介がてら、昨日やりたくてもできなかったことをさせる。
後宮の部屋では限りがあったが、最近こちらの執務室には大量の筆記板を常備しているのだ。
それらと図書館の図鑑を出してきて、動物や植物の挿絵を次々とカティンカに模写させた。
一枚完成するごとに、ヴァルターも感嘆の声を上げていた。
結局、応接テーブルに十枚並べると、なかなか壮観な眺めになった。
「すごいですね。元の挿絵より生き生きとして見えるくらいです」
「ん。じょうでき」
「それにしても十枚も、どうするんですか。部屋に飾るとか?」
「んん。さぎょうば、さんはんの、かだいにつかう」
「ああ、あの木彫り修行の二人ですか」
「ん」
「なるほど、繊細な彫りの下絵にするわけですか。こんなふうにいろいろあると、一本調子にならずに練習できますね」
「ん」
一方で、ナディーネは字の練習を始めている。
これまでよりもさらに気合いが入っているように見えるのは、カティンカの絵が褒められていることから、自分は字で、と意気込んでいるのだろう。
こっちの注文を終えたカティンカも、並んで字の練習に移っている。
一度部屋を出ていったヴァルターが、戻ってきて戸口から呼びかけた。
「カティンカ、手伝ってくれますか。二人用の机と椅子が調達できたので、運びます」
「はい」
運び込んできたのは、少し小さめの文官用の机と椅子二組だ。
ヴァルターの席の横手、直角向きの壁側に、並んで置く。
ナディーネが雑巾を絞ってきて、拭いている。
それで、この部屋の新体制の業務が落ち着いて始まった。
しばらくしてやってきたゲーオルクが、室内を見て目を丸くした。
「何だあ、また人数が増えているのか。まるで女官部屋みたいだぞ、これじゃ」
「きにしないで」
「ま、どうでもいいけどよ」
四つん這いで筆記しながらの返答に、肩をすくめていつもの席に着く。
テーブルの上に並べたままだった絵を見て、「ほう、上手いじゃないか」と呟いている。
並んだ席の侍女二人が、顔を見合わせて嬉しそうに微笑んでいた。
ちなみにこの部屋では儀礼無用の約束なので、執務中の二人は公爵次男にも着席のまま礼をする程度にさせている。要は、ヴァルターの所作を見習うようにという指示を、忠実に守っているということだ。
「例のスープの話があるから、昼休憩に合わせて殿下がいらっしゃるはずだ。用意はできているんだろうな」
「ちょうりにんが、わすれてなければ」
「おい! 殿下がいらっしゃるんだぞ」
「それだから、わすれないでしょ」
「大丈夫かよ、本当に」
このやりとりを聞いて、壁際で、今日はカティンカが青い顔で目を瞠っている。
もう慣れたのか、ナディーネがその肩を叩いているのが見えた。
「あと、午後早いうちにまた一つ植物見本が届くはずだ。俺がもらった情報ではこれが最後のはずだが、もういいのか?」
「ん。とうめんは」
「結局、二十件以上依頼したうち、ものになったのはここまでで七件だったか。あまり芳しい結果とは思えねえんだが」
「七件でも新しい可能性が出たのは、喜ぶべきことと思いますよ」
「ふん。まあ今までのところでは、製鉄の件と、こないだの荷車がでかそうだからな」
「ええ」
「まあ、よしとするか」
ヴァルターに頷き返して、腕を組んでいる。
その後声が消えたと思ったら、またテーブルの絵に見入っているようだ。本当に、気に入ったらしい。
「そのえ、きにいったなら、いちまいあげる。べつなのよければ、かかせる」
「おう。それなら、ここにないオオカミの絵がいいな」
「りょうかい。あとで」
頷いて、ゲーオルクはそのまま鑑賞を続けている。
ヴァルターをちらり見て、机の上の図鑑を指すと、察してくれた。
さりげなく立ってきて図鑑を手に取り、オオカミのページを開く。それを、座ったままのナディーネ経由でカティンカの机まで送る。
黙って頷いて、カティンカは文字練習から模写に作業を切り替えている。
ゲーオルクの側からは、それまでの事務作業と変わったところは見えないだろう。
まあ、たいした理由もないけれど、今のところあまり画家の正体は公表したくないのだ。
上位貴族や王族に目をつけられたら、盗られても文句を言えない。現状ではまだ、新製品開発への必要性を、納得いくように説明できそうにない。
それを考えれば別に今すぐ描かせなくてもいいのだろうけど、後回しにしたら僕がころっと忘れてしまいそうだ。
ヴァルターが窓の外を見て、立ち上がる。
昼が近くなったようだ。
「調理室に確認してきます。カティンカ、同行してください」
「はい」
描きかけの絵を机にしまって、侍女は立ち上がった。
この日ヴァルターがカティンカを指名するのが多いのは、当然、執務棟の案内をかねてだろう。
特に調理室は、昼食の受け取りのため、これから毎日交代で行ってもらうことになる。
ちなみに調理室自体は大きな設備で、後宮と執務棟、双方の食事を作っている。正式の出入口は執務棟側で、後宮側には受け渡し用の開放窓だけがあるのだそうだ。
部屋は一つでも中はある程度分担されていて、後宮や王族用の調理担当と、その他執務棟向けの担当、ということになっているらしい。
執務棟担当も、中身は貴族向けと使用人向けに分かれていて、当然後宮の侍女や護衛用もこの使用人向けなので、考えてみると結構ややこしい。
僕も二度ほど、ヴァルターに連れられて、見習いのクヌートに指示を伝えるために行ったことがある。
クヌートは執務棟側担当の見習いだが、王太子の直々の指示で、こちらからの特別注文に優先して動くことができるように通達されている。
二人の帰りを待つ間に、王太子が入室してきた。
膝をつくまではしないが、さすがにナディーネは直立して礼をすることになる。
ゲーオルクはいつも通り、着席したまま会釈。
僕はたまたま四つん這いだったので、その姿勢で頭を下げる。見ようによっては、両手両足を地面につく最上級の礼ともとれるかもしれない。
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