Migration
私が、
この時点で私は、自分の身に何が起こったのかをほぼ理解していた。後はそれが正しいかどうかを、確認するだけだ。
しかし解せない。私が推測しているとおりのことが起こっているのであれば、これだけでは何の意味もない。私を地理的に縛り付けているだけに過ぎない。確かに夜の間は大したことも出来なくなるが、その程度のことは問題ではない。実際、今の時点でももう、この状況から抜け出すことは可能なのだ。
だが私は敢えてそうしなかった。この時点ではまだ、奴の意図が分からないからだ。それを確認する為にも、もう少し様子を見ることにした。
『一日目はいろいろ考えちゃうと思うけど、すぐ慣れるわ。ここでは何も考える必要もないから』
ふと、石脇佑香の言葉を思い出してみる。なるほど人間ならこのような状況になればどうすることも出来なくてそうなるかも知れん。なるかも知れんが、私はあいにく人間ではない。ここに百年いようが千年いようが私にとっては一瞬に過ぎん。力も失われない。とは言え。
『さて、ただ待ってるだけというのも芸がないな…』
この状況に飽きてきた私は軽く空気をひねった。すると校舎の中に空気の流れが、風が生まれた。その風は鏡の前の空間に集まり密度が増していく、しかしその分だけ校舎内の気圧が下がり、窓の隙間や換気扇、換気口などのあらゆる隙間や穴から外の空気が流れ込みゴウゴウと音を立てた。その間にも鏡の前の空気は密度を増して、雲のような塊となりなおも密度を増していき、ある濃度に達した瞬間、その雲のような塊ははっきりとした輪郭を持った物体に姿を変えた。それは、私だった。人間としての私だ。空気を組成変換し、もう一人の私を作り出したのだ。
『ふん、こんなものか…』
目を瞑り鏡の前に立ち尽くす<私>を見ながら私は小さく頷いた。これまでにも数えきれないくらいに行ってきた慣れた作業だ。造作もない。目の前のそれはもはやただの空気の塊ではなく、完全な人間の体となっていた。
実際には空気だけでは質量を集めるのに時間がかかるので空気中を漂っていたり風に乗って運ばれてきた埃や粉塵も使ったのだが。まあそれはそれとして、少し、確かめたいことがあったからな。意識を同調させると、<人間としての私>が、深夜の校舎の中で鏡の前に立っているのが分かった。見れば、私の姿が映っている。どこからどう見てもただの鏡だ。だが、その表面に触れて撫でてみると、単なる人間には決して感じ取れないだろうが、組成のムラがあることが分かった。間違いない。その<組成のムラ>こそが、<本来の私>だ。
簡単な話だ。CDやDVDにデータを焼くのと原理は変わらん。私と石脇佑香は、存在そのものをデータ化されてこの鏡の表面に焼き付けられたのだ。ただし、そのデータが情報として作用する為には、光がいる。だから夜では光が足りなくて、充分に活動できないということだ。
私と石脇佑香がいたのは、決して鏡の世界などではない。鏡の中に<世界>など存在せん。あれはただ光を反射するだけの物体に過ぎんからな。鏡の表面にデータとして焼き付けられて、光をエネルギーに情報をやり取りしていたからそんな風に感じただけだ。正確には、人間としての意識が自分に理解できるようにそういう形で情報処理を行ったということではあるが。
まあそれは別に構わん。大した問題ではない。
概ね全容は把握した。奴がいる場所も大方見当はついている。今から片を付けに行ってもいいが、さっきも言った通り今はまだ様子を見る。
それよりも、せっかく作った<人間としての私>だから、今日はこちらで家に帰ることにした。だが、家に帰ったら帰ったで少々騒動が起きてたのだが、それはまた今度語るとしよう。
夜が明けて、光が差し込み始めると、データとしての私も充分な活動を再開できた。これでもういつでも事を終わらせることができる。そう思っていたところに、石脇佑香も再び姿を現し、私に話しかけてきた。
「どう? もう慣れた?」
相変わらず感情も抑揚もない、硬質で平板な言葉だったが、演出としては今一つだな。回りくどいだけで面白味はない。
「悪いが、私にここは退屈過ぎる。そろそろ待ち人も来たし、終わらせてもらおう」
「…え?」
私の言葉に、それまで無表情だった石脇佑香が明らかな動揺を見せた。しかし私の意識は、もうすでに別なところに向いていた。鏡の前に、銀色のテープを捩じり輪にしたような何かが現れていたのだ。それはゆっくりと内側から外側へと捩じれ、光を反射しながら空中に漂っていた。
「やはり、ンブルニュミハか…」
察してはいたが、私はやはり合点がいかなかった。こいつはこれほどの大それたことが出来る奴ではない。こいつと一緒に他の何者かが現れるかもと思ったが、それもなかった。だからもう用はない。茶番は終わりだ。
「石脇佑香。私はもう飽きたから帰ることにする。さらばだ」
その私の言葉に、石脇佑香は激しく反応した。
「帰る? 帰れるの!? お願い、私も連れて行って!」
先ほどまでの無感情な様子とは打って変わって、石脇佑香は必死に私に訴えた。動くことができれば私に掴みかかっただろう。だがここではそれはできなかった。代わりに涙がこぼれる。感情を無くしたように装っていても、やはりそれはポーズに過ぎなかったか。何もできない絶望から目を背ける為には、それしかなかったのだろう。
もっとも、そんなことは私には何の関係もない話だ。だから私はきっぱりと言った。
「残念だろうが石脇佑香。自ら変質を巻き戻すことができないお前は、もう、死んだのだ。今のお前はただの情報に過ぎぬ。本来のお前は、もうすでに組成変換されて埃や大気となって消えたのだろう。しかもお前が存在したという記憶も消滅した。お前の情報が残っていたとしても人間共にはもはや認識出来ん。私だからこそお前のことを思い出せもできたが、これ以上のことをしてやる義理もない。誰もお前を覚えていないのだから、悲しむ者もいない。安心して消えるがいい」
私の言葉に、石脇佑香は、いや、石脇佑香のデータは泣き叫んだ。
「嫌だ! 死にたくない! 助けて!」
だが無駄だ。もう一度言う。お前はもう死んだのだ。たとえ私がお前の肉体を再構成したとしても、それはもうお前ではない。石脇佑香の姿と記憶を持ったただの
「さらばだ。石脇佑香。お前のことは私が覚えていてやる」
そう言い残し、私はデータに変換された自らの存在を巻き戻した。その際、巻き戻しに使うエネルギーとして、ンブルニュミハの存在を使った。結果として奴は消え去り、私は元の部室の前に立っていた。そして向かいの鏡を見る。あとはあれの存在を無かったことにすれば、全てが終わる。
「……」
だが私はそこでふと思った。ンブルニュミハは消えた。となればあれはもうただの鏡だ。あれに書き込まれたデータを取り出す術は人間にはない。放っておいても何の影響もない。
『まあ、始末するのも面倒か……』
そんな風に感じて、私は、鏡をそのままにしておくことにした。石脇佑香のデータが残るその鏡を。
しかしその後、学校内に奇妙な噂が立つようになった。深夜、誰もいない校舎の中でその鏡を見ると、悲しそうに涙を流しこちらを見詰める女子生徒の姿が浮かび上がるという噂であった。
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