碧空寺由紀嘉の苦悩
そう、オナホとかいう道具として。つまり、相手は生身の女だが、やってることはただの自慰行為と同じだ。
とは言え、元よりこいつはずっとそうしてきたのだろう。女をそういう風に扱うことしか知らん馬鹿者だ。この手の男にはただの人間として生きていた頃の私も散々ヤられたが、逆に私がこういう男だったこともある。
だから古塩貴生に対して憤ったりもしない。単に、
『馬鹿め…!』
と思うだけだ。
ようやく碧空寺由紀嘉の方もほぐれていい声を上げ始めた頃、古塩貴生の体がビクビクと跳ねて、動きが止まった。女の体の深いところで果てて満足したようだ。
しかし、当の碧空寺由紀嘉は切なげな表情だった。せっかく気持ち良くなってきたところで終わられたのだから、まあ当然か。
「古塩君…」
勝手に一人で果てて満足し、名残を惜しむでもなく体を離し背を向けた古塩貴生に対し、碧空寺由紀嘉が縋り付くように呼び掛けた。だが古塩貴生は全く聞こえないかのように無視してバスルームへと消えた。
「…う……うぅ……」
一人部屋に残された碧空寺由紀嘉は、ベッドに突っ伏したままで泣いた。
それがどういう意味の涙かは私は知らん。惚れた男にモノのように扱われることを嘆いているとか、愚かな自分を悔やんでいるとか、いろいろと想像することはできるが、どれが正解かは結局のところ本人にしか分からん話だ。もっとも、本人にさえ分からん場合もあるだろうがな。
「なんだ。まだいたのかよ。もう用は済んだんだから帰れよ。今日はクスリも無ぇしよ」
バスルームから出て来た古塩貴生が、自分がベッドに押し付けた恰好のままで泣いていた女に対して、投げ捨てるように声を掛けた。
それを耳にして碧空寺由紀嘉はようやくのろのろと体を起こし、はぎ取られた下着も穿き直さず、どろりとした粘液が自分の太ももを伝うのにも構わず、黙って部屋を出て行った。
自転車には乗らず、そのまま押して夜道を歩く碧空寺由紀嘉の後をついて、私も歩いた。目の前にいるあまりにも惨めな様子の女に対しても、同情の気持ちなどは湧いてこない。どうせこいつ自身が招いたことだ。同情などする価値もない。
それよりも私は、古塩貴生のマンションを出た辺りからずっと後ろをつけてきている人間の気配に意識を向けていた。そいつは、認識阻害で人間には見えぬ私ではなく、明らかに碧空寺由紀嘉のことをつけていた。
男だ。ニット帽を深くかぶりいくらか人相を分かりにくくしてはいるが、二十代前半くらいの若造なのは間違いない。完全に性的に興奮してるのが分かる。手頃な獲物を物色していたところにたまたま出くわしてしまったというところか。よくよく運のない女だな。と言うか、ロクでもない男にばかり縁があると言うべきか。
完全に人気がなく、街灯もろくに無い暗い場所に差し掛かったところで、男は極力足音を立てないようにして走り出した。見る間に距離を詰め、背後から口を塞いで体を抱え上げる。
「…ん、むぅっ!!?」
男の接近に全く気付いていなかった碧空寺由紀嘉はこれ以上ないくらいに虚を突かれ、パニック状態になって何もできないまま暗がりへと引きずり込まれた。そして乱暴に地面に押し付けられて自分に馬乗りになっている人影を見て、ようやく自分の置かれている状況を察したようだった。
「…な…!」
『何するの?』とでも言おうとしたのだろうが、左の頬にガツンと衝撃を受けて、それ以上口にすることはできなかった。
「静かにしてろ。殺すぞ…!」
暗くて顔も見えない男からの低く押し殺したような、しかし紛れもない圧を感じる恫喝は、ただの女子中学生でしかない碧空寺由紀嘉から抵抗する意思を奪うには十分すぎるほどの恐怖を与えたようだった。
だが、この時に碧空寺由紀嘉が感じていたものは、それだけではなかっただろう。体の力を抜き、もはや死体のように弛緩したその様子からは、諦めと自暴自棄が見えていたのだから。
「…やっぱり、愛人の子なんてこういうのがお似合いなんだ……」
目の前の男にも殆ど聞こえないような小さな声だったが、私の耳には確かに碧空寺由紀嘉がそう言ったのが届いていた。
…まったく、面倒な奴だな……
別に同情した訳ではない。ただ、いつもの気まぐれが生じただけだ。
「すまん、ちょっと急用ができた」
リビングで一緒に自主勉強をしていた山下沙奈にそう声を掛けると、彼女は、
「行ってらっしゃいませ」
と笑顔で私を送り出した。
その山下沙奈の目の前で空間を超越し、私は、
「げはあッッ!?」
訳の分からん声を上げつつ数メートル先まですっ飛んで前のめりに転がった男の体を起こし、女子高生としての影の私が背後から腕を首に回して締め上げる。チョークスリーパーというやつだ。
頸動脈を圧迫され頭部への血流が大きく減った男は、僅か数秒で意識を失いほぼ抵抗することなくだらんと頭を垂れた。
まったく、くだらん。
「? ……?」
一体何が起こっているのか状況が掴めず呆然としている碧空寺由紀嘉を見下ろしつつ、私は僅かに街灯の明かりが顔を照らす位置に立った。
「月城…じゃない。日守さん…?」
十分な灯りのないところでは、一瞬、月城こよみと区別がつかなかったのだろう。両方の名前を口にした碧空寺由紀嘉が何かに気付いたようにハッとした。
「似てる…どころじゃない。同じ顔……?」
先程と同じように目の前にいる人間にすら聞こえない程の小さな声だったが、私の耳にはしっかり届いていた。この状況でようやくそれに気付くとはな。察しが悪い。
「随分と惨めな姿だな、碧空寺由紀嘉。ようやく私が何者か気付いたか? そうだ。貴様が散々嫌がらせをしてくれた月城こよみだ。もっとも、今では日守こよみでもあるがな」
「? ? …?」
さすがにこの説明では完全には理解できんかったのだろう。碧空寺由紀嘉はまたも呆けた顔になった。
だが、まあいい。取り敢えず私が月城こよみであることは理解できたらしく、すぐさま、
「ひっ…!」
と声を詰まらせて小便を漏らしたのだった。<あの時>のことを思い出してしまったのだろう。
そう、
もっとも、厳密にはその時の月城こよみは私ではなく、もう一人の月城こよみの方なのだがな。しかも私もそれについては記憶になく、あくまでもう一人の月城こよみから聞いた話でしかないが。
とは言え、そんなことはもうどうでもいいのだ。問題はこれからのことだ。碧空寺由紀嘉を襲った男のことは女子高生としての影の私に任せ、日守こよみとしての私は、腰を抜かした状態の碧空寺由紀嘉に言った。
「お前達がやったことを私が大して気にしてないのは、
などと言ってみたところですぐに理解できる筈もない。何とも情けない顔で私を見上げる碧空寺由紀嘉に手を差し出しながら、私はさらに言ってやったのだった。
「いいからとにかく立て。いつまでそんなところで寝そべっているつもりだ」
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