外伝・壱拾参 マルガリーテ・ブリエットの挫折

マルガリーテ・ブリエットが生まれたのは、今から百年ほど前だった。アメリカの田舎町で農園を営む両親の下に生まれた彼女は、小さい頃から絵を描くのが大好きな少女だった。


「マリーは絵を描くのが上手ね」


母の前で絵を描くとそうやって褒めてくれるのが嬉しくて、彼女はとにかく絵を描いた。仕舞いには家の壁にまで絵を描いてしまって父親に怒られたりもしたが、母親はそんな彼女に優しかった。


そして彼女は、十二歳の時に運命的な出会いをする。町の映画館で上映された短編アニメーション映画『蒸気船ウイリー』を観た時の彼女の驚きようは、しばらく近所で噂になる程だった。


「ママ! ママ! すごいの! 絵が動いたのよ! 絵が生きてるみたいに動いてたの! まるで魔法! ママ、私、アニメを作りたい!!」


家に帰って興奮が収まらない様子で母親にそう話した彼女が、近所の人間達にも同じように話し掛けたからであった。


「へえ、それは凄いわね。じゃあマリーもたくさん絵を描いてもっともっと上手にならなきゃね」


母親は微笑みながらそう言ってくれたが、父親は、


「何を馬鹿なことを言ってるんだ! うちの農園はどうするつもりだ!? お前は婿を取ってうちの農園を継ぐんだから、そんなくだらないことは考えるな!!」


と、取り付く島もなかった。<自由の国アメリカ>と言えど彼女が生まれ育った辺りは封建的な考えがまだ根強く、女性は家に入って家庭を守るというのが一般的な考えだった。


特にマルガリーテの父親は幼い頃から満足に学校にも通わせてもらえずに家業の農園で働いており、娘が学校に通っているのさえ無駄なことだと不満を漏らしている程だった。


対して母親は、簡単なそれとは言え学校で教育も受けており、これからは女性もどんどん社会に出て行くことになるだろうと予見していた為に、娘には好きなことをやらせたいと思っていた。ただ同時に、仕事に対しては誠実だった夫のことも愛しており、将来について対立する夫と娘の間に入って緩衝役を務めてくれていた。


「大丈夫。お父さんのことは私に任せてあなたは好きなことをやりなさい。マリー」


そう言ってくれる母の外にも、マルガリーテには強い味方がいた。二歳年下の妹のエリザベートだった。


「姉さん。私は姉さんと違って農園の仕事が好き。作物が育っていく様子を見るのが好き。私にとっては子供みたいなものなの。私にとって農園の仕事は天職よ。だから家は私が継ぐから心配しないで。ジョーイもうちを継いでくれるって言ってるし」


ジョーイとは妹のボーイフレンドで、既に結婚の約束もした仲だった。


「ありがとう、ママ。ありがとう、エリー」


そしてマルガリーテは、十八になったばかりのある日、アニメを作る夢を叶える為に、母と妹に見送られ、カルフォルニアへと向かったのであった。




マルガリーテにとってカリフォルニアはものすごい都会だった。道路をひっきりなしに自動車が走り、人も多く、ビルは高く、圧迫感すら感じるほどだった。


それにてられて気分が悪くなり、公園のベンチで一休みしていた彼女に、一人の男が声を掛けてきた。


「ヘイ! 君 観光かい? 良かったら僕が案内するよ」


そのいかにも軽薄そうな見た目と振る舞いに、彼女は身構えた。


「いえ、結構です!」


きっぱりと断って歩き出すが、男はしばらくついてきた。しかしそれでも無視し続けるとようやく諦めたのか、舌打ちしながら立ち止まった。


十分に離れたところで角を曲がり後をつけれられてないことを確かめて、彼女はホッと息を吐く。


カルフォルニアでは母の遠縁の親戚が小さなレストランを経営していて、そこにホームステイしながらアニメ制作会社への就職を目指すという予定だった。


「よく来たわね。どうぞ入って。仕事が決まるまではうちのウェイトレスをやってもらうことになるけど、よろしくね」


「はい、よろしくお願いします!」


母の遠縁の親戚にあたる中年女性に出迎えられ、カルフォルニアでの彼女の生活が始まった。


ホームステイ先のレストランでのウェイトレスをすることはあらかじめ決まっていたのでそれはいいのだが、慣れない接客業には戸惑った。食器を割ってしまったり注文を間違えたりとミスを連発し、彼女は落ち込んだ。


『はあ…私ってダメだなあ…』


勤務時間が終わり就職活動に行く筈の時間になっても更衣室のベンチに座り込んでいた彼女を見付けた親戚の女性が、


「マリー。反省するのはいいけれど、そうやってただ落ち込んでるだけでは人は成長しないわ。あなたには夢があるのでしょう? 失敗は反省しつつ、今はその夢にあなたのすべてを注ぎ込みなさい。私はそうやってこの店を作り上げた。あなたもそれを目指さなきゃ。時間は有限なのよ」


毅然として、しかし思いやりに溢れたその言葉に、マルガリーテは背中を押されるのを感じた。


『そうだ。落ち込んでる暇なんてない! 私はアニメを作るんだ!』


着替えて、意気揚々とアニメ制作会社に自分を売り込みに行く。


とは言え、現実はなかなかに厳しかった。女性でありながらアニメを作りたいという彼女のアピールを、担当者達は一様に眉に唾を付けて聞いた。


「インクで汚れた手でお茶を入れられてもねえ」


と嫌味を言う担当者もいた。


覚悟はしているつもりだったが、悔しさに涙が滲む。しかしその涙を拭い、彼女は再び顔を上げて次の会社に向かう。




『うう、さすがにすごいプレッシャーだ…』


その日、マルガリーテは、アメリカでも最大手と言われるアニメ映画の製作会社の前に佇んでいた。彼女がアニメ制作を志すきっかけとなったアニメを作った会社だった。


本当は一番にここを目指したかったのだが、さすがに大きすぎて腰が引けてしまい、まずは身の丈に合ったところからキャリアを始めようと他の会社を訪ねたりしてしまったのだった。しかし、けんもほろろに追い払われて最後に残ったのがここであった。


『いくらなんでもいきなり行ってもダメだろうなあ…』


そうは思うが、もうここまで来たらダメ元である。同じ砕けるなら思いっ切りぶつかってみた方がすっきりするかもしれないと思って飛び込んだ。だが―――――…


「はい、分かりました。それでは週明けから来てください」


担当者だという女性の前で自身の描いた絵を示しながらプレゼンをすると、その担当女性が彼女の絵をまとめて封筒に入れ、それを手に立ち上がりながらそう言った。そのあまりの自然さに、マルガリーテは一瞬、何を言われてるのか分からなかった。


「……え…あの、いいんですか…?」


戸惑いながらそう声を掛ける彼女に、担当女性の鋭い視線が向けられる。


「ええ、だから週明けからと申し上げているんです」


「でも、私、女だし…」


「それがどうかしましたか? 我が社は情熱と才能がある方なら性別は問いません。あなたの絵は粗削りですが勢いがあります。我が社が求めているのは市場を切り開いていくパワーを持った人材です。あなたにはそれがあると私は感じました。それともあなたは私の目に狂いがあるとでもおっしゃるのですか?」


「い、いえ! 滅相もありません!!」


とは言うものの、まさかの展開にマルガリーテには現実感がなかった。夢でも見ているのではないか、ここで『やったー!』と飛び上がったらベッドから転がり落ちて目が覚めるのではないかと思って不安になってしまった。


だが、しばらく経っても目が覚める様子がない。そこでようやく現実なんだという実感が湧いてきた。顔が勝手ににやけてきて抑えられない。


『やった、やった、やったぁぁ…!!』


心の中で何度もそう叫ぶと、そわそわが抑えきれなくなって無意識に地面を踏みしめてしまう。


オフィスビルの前で一人興奮しながら見悶える若い女を、通りすがりの人々は怪訝そうに視線を送っていた。だがもう、マルガリーテ自身にとってはそんなことはまったく目に入らない。


こうして彼女の人生は夢へと向けて本格的に動き出したのであった。




「おめでとう! マリー!! いよいよあなたの夢が叶うのね!」


ホームステイ先の親戚の女性が彼女の手を掴んで飛び上がりそうなくらいに祝福してくれた。それからすぐに母と妹に報告する為に電話をすると、


「ああ、マリー! 素晴らしいわ! あなたは私の誇りよ!!」


「おめでとう、姉さん!!」


と、二人も電話の向こうで涙声になって喜んでくれた。そのままレストランでお祝いのパーティーが始まり、常連客達からも、


「おめでとう!」


「良かったな、マリー!」


と声を掛けてもらった。


この日は、マルガリーテの人生の中で最高の日となった。




週明けからさっそく出勤した彼女は、まずアニメ制作の全体像を学ぶべく様々な部署の雑用から始めることとなった。さすがにいきなりアニメを作らせてもらえるとは思っていなかったが、アニメ制作の裏側を直に見られて彼女は毎日興奮しっぱなしだった。時には興奮のあまり鼻血を出して医務室に運ばれもした。


そこに努めている人達全員が彼女に対して親切とはさすがにいかなかったし、嫌味を言う先輩や意地悪な同僚もいたりもしたが、そんなものはどこに行ってもあることだと彼女は気にしないようにした。


それから二年が経ち、真面目で積極的で情熱に溢れる彼女の姿を見てくれている人はちゃんといて、ある時、上司が彼女にこう言った。


「どうだ? 君も絵を描いてみないか? 実は次の新作のプロジェクトにあたり、社内でコンペを行うことになったんだ。それに君も参加してみたらどうかと思うんだが」


「はい! やります! ぜひやらせてください!!」


「まあ正直、既に候補はほぼ決まっていて、それを正当なコンペの上で決まったっていうことにする為のアリバイ作りの出来レースというのが現実なんだがね。それでも、そこでプロデューサーの目に留まればいずれはっていうことも十分にあり得るんだ。そういう場でもある。参加しても無駄にはならないからね」


こうしてマルガリーテは、夢に向かって順調に歩み続けていた。


歩み続けていたのだ。それなのに……




「コンペは残念だったが、まあそれは予め決まっていたことだからいいだろう。だが、プロディーサーが君の絵を熱心に見てくれていたよ。しかも、何かインスピレーションを得たらしい。これはひょっとするとひょっとするかもだぞ」


「ありがとうございます…!」


上司の言葉に、彼女の心は浮かび上がらんばかりに高揚した。そのテンションのままに同僚達と飲みに出掛けて、彼女は浮かれて飲みすぎてしまった。だからいつもより帰宅が遅くなってしまったのだ。


いつもなら遅くとも十時には帰ってくる筈のマルガリーテが深夜十二時を過ぎても帰ってこないことを心配した親戚の女性が警察に相談すると、彼女は信じられないことを聞かされた。


マルガリーテと思しき若い女性が、射殺体となって発見されたというのである。そしてその遺体を確認した親戚の女性により、マルガリーテ本人と断定されたのだった。


発見された時、持っていた筈のバッグが見当たらなかった為、行きずりの強盗によるものと推測されたが、その犯人は特定されることはなかった。他の事件で逮捕された強盗犯がそれらしい供述をしたのだが、同様の供述をした者が他にもいて、果たしてその中に真犯人がいるのかいないのかすら判然としなかったのである。




マルガリーテ・ブリエット。享年、二十一歳。死因、外傷性ショックによる心不全(推定)。


アニメ作りを夢見た若い彼女の、あまりにも早すぎる死であった。


なお、それから数年後、彼女がプレゼンした企画を基にしたアニメ映画が公開され、その最後にはこう記されていたという。




『この作品を、若く情熱に溢れた私達の仲間、マルガリーテ・ブリエットに捧ぐ』


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