Ultimate Terror

綺勝平法源きしょうだいらほうげんが去った後、私は、あまりにも不可解で異様な感覚を感じ取っていた。この世界の全てが反転するかのような、存在するものが存在しなくなり、存在しないものが存在し始めるかのような、異常な感覚だった。信じるべきものを信じてはいけない、信じてはいけないものを信じるべきという価値観の逆転というべきか。


まるで自分が本当に何の力も持たないただの人間に戻ってしまった気さえした。私の背筋を冷たく、硬く、とてつもなく重いものが奔り抜けるような感覚もあった。


『馬鹿な…? 私が恐怖を感じているだと…?』


いや、そうではない。そうではない筈だ。恐怖を感じているのだとしてもそれはこの月城こよみの肉体が感じているものであって、クォ=ヨ=ムイの感覚ではない筈だ。この私の存在に対して本当に脅威になるようなものは、この宇宙にさえ存在しない。私と同格の連中であっても、私の存在そのものをどうこうできる訳ではないのだ。それは、単純な戦闘力では私をも上回るであろうショ=エルミナーレであっても同じである。裏返しにすれば、私もそういう連中の存在そのものを消し去ることができないという意味でもあるのだがな。


物理法則を完全に超越し、宇宙そのものを超越した私達にとっては、存在するしないという概念すら意味がないのだ。私達自身が既に概念そのものであり、何者かが何かを思考すればそれは私の存在を肯定することになる。


ふむ。人間には理解し難いか。ではこう言おう。私はお前達人間の空想の産物であり、自分達に理解できない超常の存在を思い浮かべることそのものが私の存在そのものなのだと。


故に知性を持った生物が存在する限りは私達は存在を失うことは無く、例え知性を持った生物が存在しなくなったとしても、その後何らかの知性を持った生物が現れれば私達の存在は明確になるのである。故に私達は決して滅びない。


とでも言えばいいかな。厳密に言うと若干違うのだが、まあそう認識しておけばそれほど遠くもないだろう。<実体を持った概念>こそが私達だと言ってもいい。


だから私達が恐怖を感じることは無いのだ。存在を失うこともなく、表層的にはその時々で変質したとしても決して本当に消滅することは無いが故に、恐怖を感じるという感覚が私達には有り得ないのである。恐怖を感じるのはあくまでその時に形作った実体が作り出す電気的化学的な反応に過ぎない。


そのため、私が恐怖を感じているのだとしたら、それはとりもなおさず月城こよみの肉体がそう感じてるだけなのだ。


では、月城こよみの肉体はいったい何に対して恐怖を感じているというのか?


もうこれまで何度もこの肉体は、人間であれば完全に死んでいる経験を積んできている。今更グェチェハウが何匹現れようが同じことだ。ショ=エルミナーレに破壊されたとしても巻き戻せば済むのだから実際には死ぬこともない。そんなことはこれまでの経験から分かっている筈だし、事実そのような状況にあっても殆ど恐怖を感じたりしていなかった。それが今になって何故…?


生理的嫌悪感とかいうものならまだ分かる。実際にあの男に対しては非常に強いそれを感じてた。だがそれとは明らかに違うものだ。しかし結局、その感覚の正体は分からなかった。分からないまま私は窓を閉め、そしてカーテンも閉めた。そうしないと何か落ち着かなかったのだ。窓の外から何かに覗かれているような……


その時、私はようやくこの肉体が感じてる恐怖の正体かも知れないものに思い至った。そうだ。得体の知れぬ何かに見られているかもしれないという恐怖だ。見られていることが分かればそれほどでもないものが、自分では感じ取ることはできないにも拘らず、いつ、どこで、どのようにして見られるかというのが分からないという事実が例えようもなく月城こよみという人間を不安にさせるということかも知れない。


しかも、あのどうしようもなく不快な男が、私のことを見ているかも知れないのだ。中学生の女子にとってこんな恐ろしいことはない。そう考えれば合点もいく。


再び背筋をゾゾゾゾと冷たいものが這い上がっていく。今この瞬間も、あの男は私を見ているかも知れない。あの常軌を逸した淫猥な目で、私の体の隅々を舐めまわすように見ているのかも知れない。そう考えるだけで頭がおかしくなりそうだ。私は理解した。


『そうか、これがストーカーに付け狙われている人間が感じている恐怖か』


さすがにこの部屋に忍び込んでいれば私なら気付く。


……いや、気付く筈だ…気付ける筈だよな…多分、気付くんじゃないかな……


そうだ……私がグェチェハウに気付けたのは、奴が強い攻撃衝動を私に向けていたり、綺勝平法源の後に続いてまるでゴキブリの様にカサカサとこの部屋に侵入した動きを感じ取っただけに過ぎない。もし、一切の動きも衝動も消し去った状態でいられたら、私は本当にそれを感じ取れるのか? そのようなことを試したことがないから実際にはどうなのか、確かめようもないのだ。感じ取れる筈だというのは、私の希望的観測に過ぎないのではないか…?


そういう疑念が私の中で、大きく、強く、膨らんでいく。これまで絶対的なものと信じていた自分の力が、能力が、まるで役に立たないもののように思えてきて、不安になる。


…不安…? 不安だと…? 私は不安を感じているというのか……? この私が…?


それを自覚した瞬間、今度はギリギリと、私の体の中に硬く、熱く、軋みを立てて蠢くものが噴き上がってくるのを感じたのだった。


憤怒だ。この私が、このクォ=ヨ=ムイが、恐怖を感じ不安に怯えているという事実が、私には到底許せなかったのだ。あの程度の下賤の輩を相手に恐怖や不安を感じてるなどということは、あってはならないのだからな。


私の体の奥底から噴き上がるものの勢いに任せ、私は服を脱ぎ捨て、仁王立ちになる。


『そうだ、見るなら見るがいい! 見られる程度のことなど、どうということもない。こんなものはただの肉の塊だ。そのようなものに情欲を掻き立ててる程度の奴を私が恐れる理由がない!』


だが、奴が本当にグェチェハウの中に潜み、この部屋のどこかから私の体を目で舐めまわしながら口に出すこともはばかられるようなことをしているかも知れないという想像が頭をよぎると、今度は顔がかーっと熱を帯びてくる。自分の体を空気に晒していることがいたたまれなくなり、思わずその場にしゃがみこんでしまった。しかもそれだけじゃなく、涙まで込み上げてくる。


私はいったい、何をやっているのだ? いったい何と戦っているのだ? もう、訳が分からなくなっていた。


結論を言えば、この時、奴は本当にこの部屋にはいなかった。私が勝手に疑心暗鬼に囚われて一人芝居をしていただけに過ぎなかった。しかし、見えない、感じ取れないということがいかに不安を掻き立て猜疑心を煽り、冷静な判断を阻害するのかが改めてよく分かったかも知れない。


だが同時に、この時の私は本当は分かっていなかったのだ。月城こよみが何に対して恐怖を抱いていたのかということを。あの男がどこかから見ているかも知れないということについて恐怖を抱いていたというのも事実だが、それだけではなかった。それだけではあれほどの恐怖を感じはしなかった。私、クォ=ヨ=ムイの器としての月城こよみがその力を骨身に沁みて実感し、恐ろしさを理解しているものは何であるのかということを、私は失念していたのである。


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