殺戮の刃、再臨

ガツン。という手応えと共に、何かが砕ける感触が伝わってきた。一切の手加減なく振り下ろされた鋳鉄製の灰皿の一撃で、女房の頭蓋が粉砕される感触だった。それと共に脳も破壊される。即死だった。


その瞬間、部屋を包み込んでいた笑い声が止んだ。静けさに包まれた部屋で、今度は別の声がし始めた。子供と、赤ん坊の泣き声だった。あまりの異様な雰囲気に癇癪を起こしたのだろう。上の子の泣き声は金きり音とでも言うべき耳に障る声だった。それを耳にした菱川和ひしかわの体が、その声のする方にゆらりと動いた。あの、女房の頭蓋を砕いた鋳鉄製の灰皿を手にしたままで。


翌朝、菱川和はシャワーを浴びていた。そして体を洗い終え、洗濯された下着と服を身に着け、無言のままで部屋を後にした。菱川和が去ったその部屋には、何一つ気配を発するものが存在しなかった。


ただ、テーブルの上には、いつの間にか一枚の写真が置かれていた。まだ体に馴染んでない真新しい制服を着た中学生らしき子供らが並んだ集合写真だった。日付は昨年の四月になっていた。どうやら入学式当日に撮られたもののようだ。そこには、月城こよみの姿があった。もっとも、一年前の月城こよみだから、むしろ今の私、日守こよみの姿と言った方がいいかも知れんが。そして同じ写真の中には、菱川和にとって見覚えのある顔がもう一人。それは、石脇佑香いしわきゆうかの姿であった。




それから菱川和がどこを歩き何をしたのか、本人も覚えていないようだ。気が付けば月城こよみと私が通う中学校の前に立っていて、私達の姿を求めていたらしい。そのポケットには、ナイフを忍ばせた状態で。


そのナイフは、何年か前に不良グループ同士の抗争の取材をした時に現場で拾ったものを警察には届けずに自宅に隠し持っていたものだった。護身用にしようと思ったが、職業柄、警察の職務質問もよく受ける為にナイフなど持っていてはそれこそそのまま留置所送りにもなりかねないことで自宅に置いていたのである。それを無意識のうちに手に取って持ってきていたのだ。


この時の菱川和は、月城こよみか私か、石脇佑香を探していたようだ。女房のPCやテレビの画面に映った少女、石脇佑香が月城こよみの元同級生と知ったことで、共謀して自分を陥れたのだと思ったのだろう。そしてたまたま最初に見つけたのが月城こよみだっただけだ。まあ、写真こそ残っていても、石脇佑香は既に存在しない人間だから見付けようもないが。


その後は、承知の通りだ。月城こよみを狙いながらそれは黄三縞亜蓮きみじまあれんによって阻止され、その場から逃げ去った訳だ。


しかし、あの程度でここまで錯乱するとは、元々相当追い詰められていたようだな。自分でもどこか分からない場所で電柱を背に座り込む菱川和の姿は、僅か一日で十歳くらい老け込んだように見えた。


そんな菱川和の前に、何者かの気配があった。ビクッと跳ねるように顔を上げたその先には、一人の少女の姿があった。


「大丈夫ですか…?」


心配そうに声を掛けながら覗き込む少女の顔に、菱川和は見覚えがあった。


『こいつ……確か月城こよみの部活の後輩で、虐待事件の被害者の…』


ぼんやりとした思考で菱川和が思い出す。そう、それは山下沙奈やましたさなの姿だった。それに気付いた瞬間、菱川和の体の中にまた得体の知れないものが膨れ上がった。


『月城こよみのすぐ近くにいる人間。もしかしたらこいつも…?』


それは完全に、正常な判断力を失った人間の言いがかりだった。月城こよみに関わりのある人間は誰も彼もがグルになって自分を陥れようとしているのだという強迫観念に囚われた思考だった。まあ、ネルフィヌゥアルルアに憑かれていることで猜疑心が増幅されているというのもあるだろうが、それ以上に既に頭がおかしくなっていたのだ。だから目の前の月城こよみに関わりのある少女に対しても、凄まじい殺意しか湧いてこなかった。


「…!?」


山下沙奈は、抵抗すらできないままに菱川和の両手で首を捕らえられ、その場に押し倒された。そんな山下沙奈の細い首を、渾身の力で菱川和が締め付ける。呼吸もできず、パニックになった山下沙奈が自分の首に巻き付いた手を振りほどこうと爪を立てるが、菱川和はそれを全く意にも介していなかった。


『死…死んじゃう…?』


山下沙奈の脳が、この状況を何とかしようとデタラメに思考を走らせる。殆どは何の役にも立たない過去の記憶でしかなかったが、その中に一つだけ、凄まじい力を有した思考があった。


『殺さなければ、殺される…!?』


瞬間、山下沙奈の目が燃えるように赤い光を放つ。そしてその時にはもう、山下沙奈の全身からハサミのような形をした鋭い刃があらゆる方向に向かって伸びていた。それは当然、山下沙奈の体にのしかかっていた菱川和の体も捉えていたのだった。


全身を山下沙奈の、いや、ゲベルクライヒナの刃によって貫かれ、菱川和は声を上げることさえなく絶命していた。


「あ…そん…な…?」


正気に戻ると同時にゲベルクライヒナはまた奥深くに消えてしまったが、その刃によりもはや原形も留めていないボロきれと化した制服を体にまとわりつかせて山下沙奈がふらふらと立ち上がった。既にピクリとも動かない見知らぬ男だったそれの周りに血だまりが広がっていくのを、ただ呆然と見詰めるしかできなかった。そこに、不意に声を掛けられた。


「山下さん…」


ビクッと体を竦めて声の方に振り向いた視線の先にいたのは、月城こよみであった。黄三縞亜蓮が落ち着いたことで、菱川和を探しに来た途中、強い気配を感じて駆け付けたのだ。


「待ってて、今巻き戻したげるから」


そう言いながら山下沙奈の服を巻き戻し直していく。それに続いて、菱川和のことも巻き戻す。


「う…ぐ…?」


体を僅かに捩りながら呻き声をあげる菱川和の様子を見て、山下沙奈は安心したように胸を撫で下ろしていた。


「お前、月城こよみ…!」


そう声を上げた菱川和だったが、月城こよみがその肉体を巻き戻した時に錯乱した脳の状態も概ね正常にしておいたことで、その目にはまだ冷静さが見られた。しかも、宿主が死んだことでネルフィヌゥアルルアが離れたことも影響しているのだろう。


「どうしてこんなことをしたんですか?」


真っすぐに自分を見詰めながら問い掛けてくる月城こよみに対して、「それはお前が…!」と言いかけて菱川和はハッとなった。そうだ。冷静になって考えてみれば、あの少女が月城こよみの差し金だったという根拠は何一つない。そもそも今になって思えばあの少女が月城こよみと一緒の写真に写っていた少女だったのかどうかも自信が無い。ただ何となくそう思い込んでしまっていただけだ。


それに気付くと同時に、菱川和は自分が何をやったのかということを全て思い出してしまったのだった。


力無く電柱にもたれかかり、呟くように語り始めた。


「月城こよみ…お前が両親を誘拐させたって記事を書いたのは俺だ…」


今更の告白に、月城こよみは特にこれといった反応を示さなかった。きっとそうだろうと思っていたからな。菱川和が続ける。


「結果的には誤報だったがよ……だが、俺は『これだ!』って手応えを感じたんだ。ネットカフェでお前が綺真神きまみ教と繋がりがあるのが分かってからな…」


その言葉を耳にした途端、月城こよみが呆れたような顔をした。『あー、あれね…』とその顔が言っていた。もう一人の私がアリバイ作りの為にやった小細工が裏目に出たあれだ。


そんな月城こよみの後ろに隠れるように、今回、完全にとばっちりを受けただけの山下沙奈が困ったような顔をして立っていたのだった。


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