クリスマスイブの惨劇
この時、私としてはこの状況に対して人間共がどうするのかしばらく様子を窺ってみたいと思っていたのだが、私の様子を見ていた貴志騨一成が言った。
『上に何かいるんだな? そいつが僕たちを閉じ込めてるんだな? そいつをやっつければ出られるんだな?』
やれやれ、変なところで鋭いな。お前。
『まあ、そういうことだな』
私が応えると、貴志騨一成は
「僕が何とかする。だから安全なところに身を隠してて」
だと。見た目の不格好さとは裏腹に、玖島楓恋を真っ直ぐに見詰めて迷うことなくそう言ってのけるなど、なかなか格好いいじゃないか。少々、芝居がかってはいるがな。
そんな貴志騨一成を見上げ、じゃなくて見下ろして(玖島楓恋の方が十五センチ以上背が高いからな)、玖島楓恋がどこか嬉しそうな顔をしながら頷いた。そして言う。
「やっぱり、あの時、助けてくれたのは貴志騨くんだったんだね。ありがとう。もし違ってたら逆に迷惑かなと思ったんだけど、ちゃんとお礼を言いたかったの」
レイプ魔に襲われた時に怪物の姿をした貴志騨一成が助けてくれた時の話だった。走り去る後姿を見てそうだとは思いつつ確信が持てなかったものに合点がいったのだろう。まったく、本当に見た目に拘らん奴なんだな。
だがそういう風に言ってもらえるからこそ、貴志騨一成は自分の力を悪用しようとしないのだ。
「じゃ、お友達をちょっとお借りしますね」
私は玖島楓恋に向かってそう言って、貴志騨一成を伴い走り出す。
もう既にコボリヌォフネリとしての力を発揮しつつあったこいつは、大型のネコ科の獣のようにしなやかに走る私にしっかりとついてきた。停止したエスカレーターは降りようとする人間で溢れかえっていた為、認識阻害を掛けて直接フロアからフロアへと跳び上がる。
見た目は鈍重そうにも思える貴志騨一成も、その重さを感じさせない動きを見せた。いやはや、すっかり力を使いこなしているな。こういうことについてのセンスでは
なんだか楽しくなってきてしまった私は、弾むような声で貴志騨一成に命じた。
「玖島楓恋は早く帰って子供らの夕食の用意もせねばならんのだ。三十分、いや、十五分で片を付けるぞ!」
それに対しこいつは、
「言われなくても五分で片付けるつもりだ!」
だと。
ははは! 言うじゃないか!
とは言え、ベニュレクリドゥカニァを見付けて戦闘に入るまでで五分程度は掛かりそうだがな。まあいい。その意気があるなら初手から手加減なしで二人がかりで行くぞ! 様子見は一切なしだ!
だがこの時、私は敢えて言わなかったが、片付けるなら早くした方がいい理由がもう一つあった。ベニュレクリドゥカニァが結界で閉じてこのビルごと餌を確保した理由は、自分が食う為だけとは限らないからだ。そう、自分以外の奴の餌として。平たく言えば、卵を産んで生まれてくる子らの餌にするという目的も想定されるという訳だ。この場合は、恐らくこのビル内にいる人間全員が食われるのに二日程度しかかからんだろう。なにしろ百個以上の卵を産むからな、奴は。
しかし、エスカレーターが設置された吹き抜けは十階までしかなかったこのビルは、後はエレベーターか階段を使うしかない。電気が途絶えている以上エレベーターが動いている筈もなく、階段はやはり降りようとする人間でごった返していた。
外の壁を上れば手っ取り早いのだが、今の私では結界を破るのに時間がかかってしまう。ということで、エレベーターの扉をこじ開け、シャフトの中を上ることにした。
「どうだ? まだいけるか?」
私が問い掛けると、貴志騨一成は、
「当り前だ!」
と吠えた。とは言いつつ、さすがに息が上がっているようだがな。
『そんな有様で奴を見付けても戦えるのか?』
などと思ったが、まあその時はその時だ。丁度、下の階に行っていたエレベーターがあったから、そのシャフトの中を上る。これなら途中でカゴに邪魔されることなく上まで行ける。
どうして貴志騨一成を抱えて飛んで行かないかって? それじゃ簡単すぎて面白くないだろう。
初手から手加減は無しと言っておきながらこれだからな。私の性質の悪さが分かるというものだ。そして、五分ギリギリで最上階まで来た。エレベーターの扉をこじ開け、フロアに出る。そこは静かで、人間の気配はなかった。さすがに降りたのかと思ったが、そうではなかったな。
「血の臭いがする…」
ぜえぜえと息を切らしながらも貴志騨一成がそう言った。やはり血の臭いには敏感か。
最上階は展望レストランなどがあるフロアだ。
「ちょっと待っててくれ」
貴志騨一成はそう言うと、明かりが消えて人気のなくなった展望レストランへと入っていった。客席には料理が残され、人間共が慌てて逃げた様子がうかがえる。そこに放置された料理を、貴志騨一成が片っ端から手掴みで口に押し込み始めた。やれやれ燃費は悪いな。
「私は先に様子を見てくる。食ったら来い」
夢中で料理を貪り食う貴志騨一成を置いて、私はレストランを出た。周囲を見回し、気配を探る。ああ、いるな。ちょうど奴も食事中だったようだ。
廊下を歩き角を曲がると、そこに奴はいた。間違いない、ベニュレクリドゥカニァだ。
タランチュラとか言われる蜘蛛に似ている。それを上下さかさまにしたような体に十本の脚が生えていることを除けばな。いや、前の二本は脚ではなく人間のような指を備えた<腕>と言うべきか。もっとも、その腕の先に生えた指も八本だったりするが。
いやはや、相変わらず人間にとっては生理的嫌悪感の塊のような奴だ。蜘蛛に似ていてしかも脚が多く、さらに八本指の手を伸ばしてくるとか、並の人間なら見ただけで発狂ものだろう。
しかし私にしてみれば可愛い虫けらだ。が、<影>である今のこの体には中々大変な相手ではある。
こちらから見ると横向きになった奴の、何本もの牙が複雑に折り重なるように動く口から人間の腕が覗いていた。
小さい。十歳には届かない子供の手だな。
それが、棒状の菓子を手を使わずに食うように口の中へと消えていった。灯りのない室内でも、床が血の海になっていることは私には見えてしまう。そこには、何台ものベビーカーや子供用の靴も散乱していた。子供を連れた母親の集団でもいたのだろう。奴以外に動く気配もないところを見ると、それも全部既に奴の腹の中か。
「……」
無論、私はその程度では狼狽えたりもしない。しないのだが、どうにも気分は悪かった。これもやはり、山下沙奈の影響だろうか。
貴志騨一成の合流を待たず、私は動いていた。爪を伸ばし、ナイフのようにする。私の気配に気付き、奴が手を伸ばしてきた。それを爪で掃う。が、奴の指一本さえ落ちず、弾いただけだった。思った以上に硬いな。
こいつもけっこう、個体により力の差が大きいんだったか。となると、今回の奴は割と強力な部類ということか。これは手間がかかるかも知れんぞ。ナイフでは歯が立たんということで、私は手斧を作り両手に構えた。見た目は普通の手斧だが、刃は炭化タングステンすら切り刻む特製品だ。
当たると痛いぞ。気を付けろ。
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