偽りの虚海
「な…!?」
有り得ない。この一瞬でこの距離を移動するとか、有り得ない。古塩貴生もレスリングをするだけあって、それが本来なら起こりえないことだというのを知っていた。人間にはできないことの筈なのだ。
しかもまた、まるで鉄の拘束具にでも捕らえられているかのように、腕が全く動かない。力が強いとかいうレベルの話ではない。押すことも引くことも全くできない。
古塩貴生の背に、ぞくりと冷たいものが奔り抜けた。改めて自分が得体の知れないものを相手にしていることを感じ、体が強張った。その目に怯えの表情がよぎったことに気付いた肥土透が手を離すと、「チッ!」っと舌打ちを残して古塩貴生は立ち去った。
「ありがとう、肥土君!」
そう言った
だがこの時、こちらに視線を向けている者がいることに、私は気付いていた。校舎の出入り口に立ち、そこからこちらを見ている者。あれは、
他の連中を家にあげると、山下沙奈が皆に水を配っていた。すっかり奥さん気分だな。
「山下さん、本当にこいつに何かされてない?」
席に着き水を出されるなり月城こよみが、学校では訊けなかったことをはっきりと訊いてくる。
「……」
山下沙奈はそれに対してただ首を横に振りながら苦笑いを浮かべるだけだった。山下沙奈は基本的に思ってることが顔に出るやつだ。辛かったり苦しかったりすればそれが顔に出る。以前はそういうのも隠す為に前髪を伸ばしていたが、今は違う。だからこの様子を見ていれば大丈夫だということが分かる。
月城こよみにもそれが分かっているのだろう。
「そう? だったらいいけど…」
と少し安心した様子でそう言った。しかし私はその時、家の外に、正確には学校の校門の辺りに意識を向けていた。碧空寺由紀嘉が驚いた様子で周囲を見回しているのが分かった。おそらく黄三縞亜蓮の後でも追おうとしたのだろうが、見失ってしまったことに驚いたのだろうな。この家がある路地の方も覗き込んでいたが、当然、見付けることはできない。
しかもこいつもまた、下賤の輩と関わってるな。直接は憑かれてないが、憑かれてる奴と関わってるようだ。黄三縞亜蓮もそうだが、つくづくそういうのに縁がある奴らだな。
しばらく私の家で無駄話をした後、月城こよみ、肥土透、黄三縞亜蓮の三人は帰っていった。
「夕食の用意しますね」
山下沙奈がそう言いながらキッチンに立つその後ろで、私は
『碧空寺由紀嘉の監視をしろ』
私の命令に、『はいな~!』と軽く返事をした瞬間には、一通りのチェックは済んだようだった。リビングのディスプレイに現れ、チェックした項目を読み上げる。
「碧空寺由紀嘉。2年7組。出席番号22番。血液型AB。ホテルや飲食店をチェーン展開する碧空寺グループの一人娘。
おっと、本人のアカウント発見。
父親からは甘やかされてて、でも母親との関係はかなり悪そうですね~。悪態暴言吐きまくりで態度もデカい。典型的なネット弁慶ですか~。これはヒドイ。
あ、別アカも発見。おっとこっちは…出た~! イケメンとラブラブ~、でもこのイケメン、実は自然科学部の
『って、何だと!?』
思いがけず貴志騨一成の名前が出て来たことで私は立ち上がりそうになった。まさかここで碧空寺由紀嘉と貴志騨一成が関わりがあるとはな。最近の貴志騨一成の様子がおかしかったのは、SNS上で碧空寺由紀嘉と付き合ってたからか。
奴は
しかし、健康な中学生男子として性欲も当然あるから、それを向ける対象も必要としているということだと思われる。
やれやれくだらん。
いや、だが待てよ? 碧空寺由紀嘉はまだ校門の前でうろうろしているぞ?
「おい、貴志騨一成は今、碧空寺由紀嘉とやり取りをしているのか?」
私がそう問い掛けると、石脇佑香が、
「現在進行形でイチャコラしてま~す」
と応えてきた。
『おいおい、それじゃ今、学校の校門前をうろついてる碧空寺由紀嘉は誰なんだ?』
私のその疑問には、石脇佑香がすぐに答えを出してくれた。
「あ~、これ、アカウント乗っ取りですね。碧空寺さんの休眠アカウントを誰かが勝手に使ってます。ログを調べたら、殆ど使われてなくて、半年以上放置されてたのが先週くらいから急に動き出してます。他のアカウントにやたらメッセージ送って、返ってきたその中の一人が貴志騨君ですね~」
なるほどそういうことか。
「さらに碧空寺さんの別アカはっけ~ん。こっちは本人が今も使ってるっぽいですね。あっと、相手は古塩貴生でした~! こちらもラブラブだ~!」
などと、ネット上の足跡をたどるだけでほぼ何をやってるか掴まれてしまってるじゃないか。今の人間共は大変だな。まあそれはさて置き、やっぱり碧空寺由紀嘉は古塩貴生と繋がってて、それでいまだに黄三縞亜蓮に未練があるのを見て嫉妬したということか。だがさらに石脇佑香が言った。
「あれ? この古塩君のアカウントも乗っ取りっぽいな。って、誰? この女…!?」
突然、石脇佑香がそう声を上げて、ディスプレイから姿を消した。
「おい、どうした!?」
私が問い掛けても反応がない。そこで私は空間を超越し、自然科学部部室前の鏡のところに現れた。直接話をする為だ。
「おい! 石脇佑香!」
そう声を掛けると、鏡に石脇佑香の姿が浮かび上がった。ふん、どうやら無事だったか。しかし、何があった?
「あ~、やられました~。攻性防壁ってやつですね。ノートPCからのアクセスだったからカメラで顔を確認してやろうと思ったんですけど、弾かれました。でも、一瞬だけど写真は撮りました。ログも抜いてやりましたよ。女自身の個人情報は全く入ってませんでしたけど、碧空寺さんと古塩君の成り済ましはこの女です。他にも十人分くらい、成り済まししてますね」
そう言って石脇佑香が鏡に映し出した顔に、私は見覚えがあった。
「こいつ、うちのクラスの
そうだ、以前、もう一人の私が、ネットカフェの利用状況を改竄してアリバイを作ろうとした時に、こいつの利用履歴を私のと書き換えたのだ。だが新伊崎千晶と言えば、夏休みに入る以前から不登校で学校に来てなかった筈だな。
「あ、そう言えばそうですね。確か
やれやれ、またここで綺真神教か。あれそのものはもう潰れたから直接は関係ない筈だが、私は石脇佑香が撮った新伊崎千晶の画像を見て気が付いた。こいつ、憑かれてるな。なるほど、貴志騨一成や碧空寺由紀嘉から微かに臭ってたのはこいつの臭いか。
新伊崎千晶に憑いているもの。それは、他者を欺くことそのものを餌にしている下賤の輩、ムァシュフヌレヒニだった。まったく、面倒臭いものに憑かれたものだな、こいつも。嘘がはびこるネットの世界は、ムァシュフヌレヒニにとっては格好の餌場なのだ。
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