外伝・拾壱 藤波沙代里の慢心

正直、これから話すことはあまりにも馬鹿馬鹿しくて恐らくネットなどではただの笑い話とされて嘲笑の的になるだけというエピソードだろう。だが、そんな形で喪われたものであったとしても、命は命なのだ。その尊厳を踏みにじる権利を、誰が持っているというのか……




「姉ちゃん、うるせぇよ!! ドタバタしてんじゃねぇ!!」


そう言って怒鳴り込んできたのは、弟の孝多こうただった。高校受験を来年に控え、その為の勉強をしていたのだが、隣の姉の部屋から響いてくる物音に、苛立ちが頂点に達してしまったのである。


扉を乱暴に開け放ち、拳を握り締めた彼の視線の先にあったのは、真っ赤なミニスカートを纏った逞しい太腿の間から覗く、真っ白な女性用のショーツだった。


「はっはーっ! 見よ弟よ、このカールゴッチばりの見事なブリッジを!! こんな完璧なジャーマンスープレックスを決められる女子高生が他にいるか!? 大いに自慢しろ!!」


まるでショーツが喋っているかのような絵面に、孝多は、


「ダマれ! この変態プロレス女!! とにかく俺は勉強中なんだ、邪魔するな!!」


と怒鳴るしかできなかったのだった。そんな弟に、ブリッジの状態からまるでビデオの逆再生のようにスッと立ち上がった藤波沙代里ふじなみさよりは、胸を張り腕を組んで声を張り上げた。


「はっはっは! 心配いらん!! この私が公立に進学できるのだ! 高校なんてよゆーよゆー!!」


事実だった。中堅どころとは言え、沙代里は受験勉強など殆どすることなく、『近いから』というだけで選んだ近所の公立高校に余裕で受かっていたのである。だが、弟の孝多にすればそれがまた癪に障る。


幼い頃からプロレスにドはまりしたこの姉に、トレーニングと称してプロレス技の練習台にさせられ、本気で立ち向かっても一度も勝つことのできなかったことは、彼にとっては屈辱以外の何ものでもなかった。だからせめて高校は姉より上のレベルの学校に進んで見返してやりたいというのがあった。


それなのにこの態度。どこまでもふざけてると孝多からは見えてしまった。だから頭に血が上ってしまったのだ。どう言えばこの姉に分からせることができるのかが分からなくて、つい口を吐いて出てしまったのである。


「タヒね!!」


もちろんそんなことを本気で思っていた訳ではない。他愛ない姉弟ゲンカ、いや、ケンカですらない一方的で幼稚な悪態だった。それなのにまさかそれが、姉と交わした最後の言葉になってしまうなどとは、夢にも思わなかったのだった。




藤波沙代里は、極度のプロレスマニアだった。プロレス好きだった父親の影響かもしれないが、それにしてもあまりにも振り切ったマニアっぷりに、父親でさえ呆れていたようだ。


幼い頃からプロレスの番組しか見ず、ビデオテープは擦り切れるまで何度も見て、切れたビデオテープをデッキ内で絡ませて既に三台を破壊している。メディアがCD-RやDVDに移行することでそういうことはなくなったが、ビデオテープから映像をデータ化する作業に、父親は余暇の殆どを費やすことになったという。


ちなみに、沙代里には二歳年上の姉もいるのだが、こちらは逆にプロレスを含め格闘技には全く興味のない、どちらかと言えばアイドルの追っかけなどをする普通の少女だった。その辺りは母親に似たらしい。大学に進学して今は下宿住まいをしている。


まあそれだけに、沙代里のプロレス熱の被害を弟の孝多が一身に受けている状態とも言えたのだが。


それでも沙代里の情熱は本物だった。中学高校とレスリング部に所属し、県大会では二位に入賞するほどの実力もあった。しかも二位にとどまったのは、プロレスよろしく相手の技を受けきってから逆転を目指すという、レスリングなら本来は有り得ない試合運びをした結果だった。これまで一度もフォールを奪われたことはないが、負けた試合は全て奪われたポイントを逆転できなかったというものである。


そんな沙代里の態度にレスリング部の顧問などは当然、


「何を考えてるんだ!?」


と叱責したりもしたが、彼女にしてみればレスリングはあくまで、将来のプロレスに活かす為の基礎作りでしかなかったので、勝敗などどうでもよく、


「先生! すべてはプロレスの為です! それしかありません!」


と、顧問の言葉もどこ吹く風だった。


本当は、高校にも進学せずに中学卒業と同時にプロレス道場に入門するつもりだったが、両親に『高校卒業がプロレスをする条件』と申し渡され渋々承諾したほどだった。


しかし、高校でもレスリング部で鍛えたことが幸いし、今はまだ見学生として顔を出していたプロレス道場でも<期待の人材>として是非にと誘われてもいるほどであった。


だが、そういう、あまりに順風満帆だったことが油断に繋がってしまったのだろうか……


孝多が呆れて部屋を出て行った後、沙代里は再び自らのジャーマンスープレックスの完成度にさらに磨きをかけるべく、練習台として自作した、古い布団を丸めてロープで縛り人体に見立てたそれを抱き締めてすさまじい速度で後ろへと反り返った。


いつも通りの筈だった。


恐らく千回を大きく超えるくらいに繰り返した動作を、いつも通りに行っただけの筈だった。なのにその時だけ、何故か右脚が滑ってしまい、バランスが崩れ、頭を床に付けた時に首におかしな力が掛かったらしかった。


バキッッ!!


っという衝撃音と共に、視界が真っ暗になる。


『え? 停電!?』


それが、沙代里の最後の思考となった。痛みを感じる暇もなく彼女の意識は途切れ、僅か十七年の生涯を閉じることになったのだった。




藤波沙代里。享年、十七歳。死因、頸椎骨折・神経断裂に伴う窒息。


夕食に呼ぶ為に再び姉の部屋を訪れた孝多によって発見された時には既に手遅れの状態であった。その姉に対して掛けた最後の言葉を彼が生涯悔やむことになるのは言うまでもなかっただろう。


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