Little Girl

<もう一人の私>が保健室で佐久下清音さくもときよね貴志騨一成きしだかずしげのイチャイチャに辟易していた頃、私は帰っていく刑事の会話に聞き耳を立てていた。それで今川いまかわという刑事がどうも私に対して疑念を抱いているということに気付いたことで今後の対応を思案していた時、突然、自分の体が得体の知れん疼きに襲われたのだった。


『…!?』


それはまるで、全身の毛穴に小さな舌を差し込まれて舐めあげられるような、甘い痺れであると同時に怖気おぞけをもよおす不快さも秘めた異様な感覚であった。体が勝手に痙攣して力が入らなくなり、ソファに力なくもたれかかる。


『…くそ、何だこれは…?』


幸い祖母はまたどこかに電話していて私の様子には気付いてない。しかし、これはいったい何なのだ? 次第に強くなっていくそれが明らかに肉の悦びであることを察知した私だったが、既にそれに呑まれないようにかろうじて意識を保つのが精一杯の状態になっていた。祖母がいなければ、一人でその愉悦に浸っていたかも知れない。


『まったく…なんだってこんな……』


こちらとしては何の心当たりもないそれに、最初は月城こよみの肉体に何らかの異常が生じているのかと思ったが、このような症状は私の過去の記憶にもない。強いて言うなら、薬物を使った姦淫が近かった気もするが、やはりそれとも何かが違う。そこで私はようやく、この感覚がもう一人の私を通じて送り込まれているものではないかと思い至ったのだった。


そこでもう一人の私と意識の同期を計ったのである。だがそれと同時に不測の事態に備えて、感覚の共有は最小限に抑えた。そして私は見たのだ、机に置かれた鏡に映る、低級な淫魔に取りつかれ知性の欠片もない顔で淫禍に溺れる<もう一人の私>の姿を。


瞬間、私は声に出さずに叱責していた。


「妙な刺激が来ると思ったら、何をやっている? 肉の悦びに溺れてる場合か、恥を知れ!」


その私の意識が起点となり、もう一人の私は淫魔がもたらす刺激を遮断、正気を取り戻したのだった。そうすればもう、私が淫魔ごときに後れを取る理由は何もない。一秒と掛からずにそれを屠り、存在を食らった。


しかし私は許せなかった。私を辱めた淫魔より、ケニャルデル程度の最下級の淫魔にいいようにされた私自身がだ。


「だらしなく涎を垂らしてアヘ顔を晒してたくせに何を言っている。許せないのはお前の方だ。痴れ者が!」


淫魔に向かって「十億年食らってやる!」と呪いの言葉を吐く<もう一人の私>に対し、私は再び声に出さずに叱責した。それに対しもう一人の私が「黙れ!」と逆上する。だが、そこまでだった。私の冷静さが勝り、今度こそ意識が完全に同期された。


とは言え、これは私にとっては汚点以外の何物でもなかった。たかがケニャルデルにここまで弄ばれるなど、有り得ない不様さだ。不愉快さだけが残ったが、もうこれ以上は意味がない。意識を切り離し後はもう一人の私に任せることにする。


『まったく。最悪の気分だ…』


ぐったりとソファーに沈み込む私に、祖母は気遣いの欠片もなく言った。


「こよみちゃん、下のレストランに食事に行きましょう」


孫娘が気分悪そうにしてるんだから、せめて「どうしたの? 大丈夫?」の一言もかけられないのか、こいつは。こいつ自身が我が子とその嫁の消息が知れなくなって精神的に普通ではないのは分かるが、それすら我が身だけが可愛いという感覚しか伝わってこんな。こんな親類や親に育てられたのでは、娘がまともな人間になれる筈もないか。オカルトに逃げ込んだ原因がよく分かる気がするよ。


下着がぐしょぐしょになっていたので、


「ごめん、ちょっとトイレ」


と言って替えの下着を掴んでトイレに駆け込み履き替えたが、スカートまで染みていたのでそちらは力を使って消した。替えた下着は取り敢えず洗面台に置いておく。


とてもそんな気分ではなかったが仕方なく祖母に付き従ってレストランフロアへと降りてきた。祖母はビーフシチューを注文したが、私は肉という気分ではなかったので寿司を頼んだ。もっとも本当は、こういうところのお上品なそれではなく、回る寿司をフードファイターよろしく食い漁りたい気分だったのだが。


だがまあそれはいい。それよりも……


『なんだ……?』


顔や視線は動かさず、私は周囲を窺っていた。と言うのも私はこの時、異様な気配を感じていたのだ。


何者かがどこかから私を見ている……


『見ている気がする』のではなく、間違いなく見ている。明らかに人間の気配ではない。しかし殺気や殺意の類は感じられない。ただ、私を見てるのだ。まあ、人間でないのは確かだから、殺気や殺意が無いからと言って攻撃する意思がないとは限らない。奴らは人間のような悪意で危害を加えてくるとは限らんのだからな。遊びや悪戯、場合によっては良かれと思って命を奪うこともする。人間とは命に対する感覚がそもそも違うのだ。生きている苦しみから解放してやることこそが喜びと本気で考えている奴らもいるからな。


『ふむ……』


私が気付いたことを向こうも気付いただろう。さて、どう出るかな。


食事を終えた祖母と私は部屋へと戻り、洗面台に置いた下着を自分で洗い、祖母のくどくどと無駄に長い話を聞き流し、宿題を終え、風呂に入った。


『しかし…あれだな……』


この手の上等なホテルの風呂はお上品すぎてどうも落ち着かない。海外の映画などでよく見る泡だらけの風呂にしてみようかとも思ったが後始末が面倒そうなので止めて普通に浸かった。レストランで感じた気配は今は感じないが、恐らくまだこの近くにいるだろう。何を仕掛けてくるのか、それともただの監視や観察なのかも現時点では分からないが、私が目的であることだけは間違いないだろうと思われた。


ぼんやりしていると、つい、さっきの悦楽の余韻が甦ってきてしまって、無意識に手があらぬところを触れていた。


『いかんいかん…!』


この体はそういうものを楽しむにはまだ幼過ぎる。人間の倫理観や道徳観など知ったことではないが、単純にキャパシティーが小さくて楽しめないのだ。少なくともあと十年は育成せねば。まあ、今すぐ成熟させても構わんのだが、それでは面白みに欠けるからな。楽しみは取っておこう。


私に続いて祖母が風呂に入っている間、バスローブに身を包み、ソファーで寛いでいた私は、再びあの気配が届いてくるのが感じられた。そこには今度は明らかな意図が込められていた。


『…来い…』


その気配はそう言っていた。


『…いいだろう』


お誘いとあれば断る理由もない。着替えるのも面倒だからバスローブのままで窓からベランダに出て、そこを見た。それはホテルの敷地内にある小さな公園だった。おあつらえ向きに人間が近寄れないように<結界>が張られているのが分かる。なるほど、そこでやりあおうということか。


ベランダの手すりに立つと、下から風が吹き上げてくる。バスローブの裾がはだけるが、意にも介さず私はそのまま体を宙に躍らせた。


重力に引かれすさまじいスピードで落下しているにも拘らず、体は浮遊感に包まれていた。見る間に地面が近付き、速度はそのままに、しかしまるで羽毛が落ちるかのように音もなく私は着地した。運動エネルギーの全てを変換し、私の中に蓄えたのだ。そしてそれを、あいさつ代わりに私の前に立っていた奴にぶつけてやった。


ゴンッッ!!と巨大な塊が非常に硬いものにぶつかるような衝撃が空気を震わせる。


しかしさすがはその程度では本当に挨拶にしかならなかったようだ。<そいつ>を頂点にして地面がV字に抉れただけで、そいつ自身はまるで意にも介してなかった。


『子供…か』


公園の周囲に設置された常夜灯に淡く照らし出されたその姿は、人間の子供のそれだった。年齢としては六歳くらいだろうか。白いローブのようなものをまとい、髪を肩の辺りで切り揃えた、不自然なくらいに大きな瞳が印象的な少女だった。と言っても、それは外見だけだ。その実態は間違いなく私に極めて近い存在。人間が<神>と呼ぶ超越者だ。


『ふむ…こいつが今回私にちょっかいをかけてきた奴か? …いや、違うな。こいつはそういうタイプじゃなさそうだ』


少女と言うかもはや幼女と言った方が相応しいその外見とは裏腹に、そいつの中に途方もないエネルギーが膨れ上がるのを、私は感じていたのだった。


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