Alien Nation
幸い、その赤ん坊は死亡してからまだ一日程度くらいだったようで、巻き戻すことが出来た。ただ、しばらく碌に世話もしてもらえていなかったようなので、可能な限り巻き戻した。死亡する直前に戻しても、ダメージがあるかもしれなかったからだ。するとかなり血色がよくなり、そして声を上げて泣き出した。
力を感じる泣き声だった。と、その時、風呂場の方で物音がして飛び出してくる人影があった。母親らしき女だ。
「りりか!」
女は濡れたままの体で服も着ずにそう声を上げると、私から赤ん坊をひったくるようにして自分の胸に抱き、自分の乳を赤ん坊に含ませる。その途端に赤ん坊は泣き止み、勢いよく母親らしき女の乳を飲みだした。
「どうして…? でも、良かった…」
女は泣いていた。涙をこぼし鼻水まで垂らしながら赤ん坊を愛おしそうに見た。しばらくそうした後、思い出したように私を見て言った。
「あなたは…? 誰…?」
いまさら随分と間の抜けた質問だが、まあそれどころじゃなかったのだろう。だが私も二人の姿を見て涙と鼻水がこぼれていた。月城こよみの所為だ。
私は女の質問には応えず、そのまま窓から飛び出し、髪を羽に変えて飛んだ。
「…天使…?」
涙を拭いながら飛び去る私を見送る女がそう呟いたのが、私の耳に届いてきていた。
天使とはまた、趣味の悪い冗談だ。私の唇に苦笑いが浮かぶ。涙はもう既に止まり、鼻水は消した。手近なビルの屋上に降り立ち、深呼吸をする。
先程の女と赤ん坊の件については、女に憑いていたヌェズレニェホァを私が喰ったことで状況は大きく変わるだろう。これからどうするかはあの女が決めることだ。私の知ったことではない。
しかし、ギビルキニュイヌの時には子供を巻き戻せなかったが、今回の赤ん坊を巻き戻せたことで月城こよみの感じていたストレスが随分と和らいだ気がする。それと、巻き戻せるのはせいぜい一週間程度だということも分かった。赤ん坊を巻き戻した時の感じでそれくらいだと推測出来たのだ。本来の私なら無限に巻き戻せるのだがな。
ただ、どんなものでも無限に巻き戻せるが故に、人間同士の諍いなどで生じたものについては巻き戻したりしないのだ。いちいち人間の要望を聞き入れていては、どこまで巻き戻しても必ず不満が出るのは分かっている。子が死んだ母親の願いを聞き入れれば、親を亡くした子の願いも聞き入れなきゃならなくなる。きりがない。生きているものがいずれ死ぬのはそれが必要なことだからだ。死があるからこそ生きているのだ。死なない生き物はそれはもはや<生き物>ではない。そう。私のようにな。
私は不滅の存在だ。一時的に存在がほぼ失われることがあっても、時間が経てば、状況が変われば再び存在を始めることができる。その期間が一億年だったり十億年だったりしても、私にとってはどうということもない。だが、それ故に人間の死に対する恐怖というものが私には実感として理解できない。こうやって人間の肉体を持って人間として生きたことで、人間として形作られた意識の部分では死に対する恐怖や喪失感といったものもそれなりに理解していても、やはりクォ=ヨ=ムイとしては実感できるものではなかった。だから私に人間に対する興味や関心はあっても同情はないのだ。失ったらもったいないと思うことはあっても悲しんだりはしないのである。
死なないということは、死ぬということに対する感覚も失わせるのだ。人間は死ぬからこそ、生きていることに感謝し喜びを感じることができるのだろう。死なないというのは、案外つまらないものなのだ。つまらないから、時間を持て余してしまうから、余計なことを考えてしまう。命を弄びそれを楽しみにしようとしてしまう。死なない者というのは、命に限りのある者にとっては邪悪な存在でもあるのだ。
そんなことを考えていると、次の気配を察知した。近い。このすぐ近くだ。
私はビルの屋上から体を宙に躍らせ、地上に降り立った。歩いてもすぐの場所だ。
「ヴィシャネヒルか…」
ビルとビルの間の、街灯の明かりさえ届かない路地とも言えないような隙間に入って行った私は、その行き止まりにうずくまっているものに気が付きそう声を漏らした。ぼろぼろの服を身にまとい、自分自身を抱きしめるようにしてうずくまるそれは、見た目には人間の子供のように見えた。十歳程度だろうか。だがそうではないことを私は知っている。こいつには擬態能力がある。人間に取り憑いているのではなく、こいつ自身が化生だ。
わざわざ子供の姿をしているということでショ=エルミナーレを連想してしまうが、あれとは次元の違う低級な存在だ。奴は自分の力を制限する為に子供の姿をしていたが、こいつは人間の世界に紛れ込む為に人間に擬態している筈だ。しかし、せっかくの擬態能力にも拘らず、なぜこんなに薄汚い恰好をしているのかは腑に落ちなかった。もっと普通の格好をしていれば人間に紛れられるというのに。
私が近付いていくとその気配を感じ取ったのか、頭を上げてこちらを見た。それを見た私の足が止まってしまった。私に対して向けられたそれには、明らかな怯えがあったからだ。
怯える? こいつらが?
こいつらに人間のような感覚はない。いくら人間そっくりの姿に出来るといってもこいつらは人間ではないし、人間の感覚を持つような生態をしていない。こいつらにとって人間は単なる餌や利用すべき宿主であり、共感できる部分は何一つないのだ。
化生にも恐怖という感覚を持つものはいる。そういうやつらなら圧倒的に力の差があるものを前にすれば怯えることもあるのだから、この反応もおかしくはない。だが、ヴィシャネヒルはそういう類の化生ではなかった筈だ。基本的にゲベルクライヒナに近い、人間に対しては強い破壊衝動を抱く奴の筈だった。そして、恐怖は感じない。私のような次元の違う存在相手でも躊躇うことなく襲い掛かってくる種類の奴なのだ。
私の勘違いか? ヴィシャネヒルだと思ったのだが、別の化生だったのか? 一瞬だがそう思ってしまう程、初めて見る反応だった。
が、まあいい。どうせこのままにしておいても危険なだけだ。私が喰ってしまえばそんな疑問もどうでもよくなる。
そう思い再び近付こうとする私の動きに、子供の姿をしたヴィシャネヒルの体がビクッと反応するのが見えた。まるで折檻を恐れる人間の子供のように怯えた目で私を見詰め、体を震わせた。しかし私に、そんなことに対する同情はない。私は今からこいつを喰う。それだけだ。それだけの筈なのに、私の足はそこから先へは出て行かなかった。
月城こよみだ。月城こよみの意識がこいつの様子に同情し、私の邪魔をしているのだ。馬鹿な奴だ。ここで私がこいつを喰わなければ、いずれ人間にも被害が出る。確かに今のこいつからは血の臭いはしないが、だからこそ今のうちに喰ってしまうべきなのだ。お前が人間を守りたいのならな。
私は、私の頭の中にいる月城こよみの意識に対してそう諭し、強引に足を踏み出そうとした。するとその瞬間、私は自分自身がずれるような、もしくは何かが剥がれ落ちて別々になってしまうような、奇妙な感覚に陥ったのだった。そして私の口からは、思いもかけない言葉が漏れ出ていたのだった。
「やだ、ダメだよ。私にはできない。だって相手は子供なんだよ? 私には怪物には見えないよ…」
なんだと…?
『そうではない、こいつはただの怪物だ。人間にとってはとてつもなく危険な怪物なのだ』
そう言おうとした私の言葉は、しかし私の口からは出て行かなかった。それどころか、
「嫌だ…もうこんなの嫌だよぉ……」
と、嗚咽交じりの泣き言しか出てこなかったのである。それは間違いなく、私の言葉ではなかった。私ではありながら、クォ=ヨ=ムイの言葉ではなかった。そして私は気付いてしまったのだった。今、この体を支配しているのは、人間・月城こよみなのだということに。
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