白昼の悪夢
学校内にちょっとした気配が生じているのに気付いて、私は目が覚めた。
「暇だな…」
またそんな言葉が漏れる。言ったところでどうにもならんことは分かっているのだが、つい、な。
「そればっかりですね~」
その瞬間、私の中に何か、熱さと痛みと苦しさを伴ったドロドロとした感覚が流れ込んできた。山下沙奈だ。山下沙奈が感じているものが、意識を繋げたことで私にも流れ込んできているのだ。
それに意識を向け、映像として認識する。
すると、巨大な異形の影が、山下沙奈を組み敷いてその体を貫いている光景が見えた。
異形の影が激しく突きあげる度に体が引き裂かれるような熱と痛みが体の中心を走り抜け、吐きそうな気分になる。それは、私にも覚えがあるものだった。ただの人間として生きていた頃、私がいたどこかの村が戦場になって蹂躙された際に、家に押し入ってきた男達に父親を殺され、母親と一緒に凌辱された時に味わった感覚に似ていた。
肉の悦びなどどこにもない、ただ熱くて痛くて苦しいだけの屈辱の記憶。それと同じものを、山下沙奈が感じているのだ。
何事かと一瞬思ったが、現実ではないのはすぐに分かった。夢だ。山下沙奈が夢を見ているのだ。いや、単なる悪夢ではないか。ある意味では現実でもある。何しろその悪夢は、何者かが意図的に生み出しているものなのだからな。
『ワヌゥラホゥフイェか…』
夢魔の一種だ。人間に悪夢を見せてその恐怖を食らう。放っておいても大した害はないが、時折、その悪夢により精神を病み、やがて事件に至る例も少なくはない。私にとってはどうでもいいことではあるものの、私のものに勝手にちょっかいを出されるのはいい気はしない。だから私は、山下沙奈の夢の中に現れていた。
薄暗く狭い部屋の中で、幼い山下沙奈が赤黒い肉の塊にのしかかられ、激しく体を貫かれていた。涙を流しながら声を漏らす。
「やめてぇ…いたいよぉ…いやだぁ…ママぁ……」
見れば、隣の部屋にもう一つの赤黒い肉の塊がいるのが見えた。それが母親ということか。だが、全く人間の姿をしていなかった。顔と呼べるものなどないが、それでも山下沙奈の方を見ようともしないのは分かった。
私は無言のまま近付き、山下沙奈を組み敷いていた肉の塊の首と思われる辺りを掴んで力尽くで引きずり倒す。
「ご…ガ…ぶエぇ…?」
言葉にならない声を発するそれの胸倉らしき部分を掴んで無理矢理立たせ、何も言わずに顔と思しきところに往復ビンタを食らわした。何度も何度も、無限ビンタだ。容赦はしない。ビンタを食らわした部位が倍ほどに腫れ上がったところで今度は山下沙奈を貫いていた一物を手加減なく握り、苦悶する肉の塊を引きずるようにして私はその部屋を出た。山下沙奈本人には何も声を掛けなかった。
部屋から出た後も、私にはその部屋の様子が見えていた。山下沙奈の意識と繋がっているからな。
私と異形の肉の塊が出て行った襖を呆然と見ていた山下沙奈の体が、みるみる現在の姿に戻っていく。
「…先輩…?」
ようやくそれだけ呟いた時、何かの気配に気付くように山下沙奈が隣の部屋を見た。するとそこにいたのは、先程の母親と思しき赤黒い肉の塊ではなかった。それは、私だった。肉の塊でしかなかったものが、私の姿になっていた。
「先輩…先輩……!」
涙を流しながら縋り付く山下沙奈を、私の姿をしたそれがそっと抱き締める。それこそがこいつの救いなのだと分かった。だが、私にとってはどうでもいいことだった。
ワヌゥラホゥフイェを食った私は、学校に戻っていた。時間にすればほんの数秒だ。石脇佑香は私がいなくなっていたことに気付いていなかった。
『…目が覚めたか?』
病院にいる山下沙奈にむかって声を掛けると、にじんだ涙を拭いながら答えてくる。
『はい、ごめんなさい、寝てしまってたんですね、私』
本を読んでるうちに眠くなって寝てしまってたのだろう。そこをワヌゥラホゥフイェに狙われたのだ。悪夢になりそうな材料には事欠かん点が恰好の的になったのだと思われた。
『そのようだな』
私が短く応えると、姿勢を改める気配が伝わってきた。
『先輩…』
落ち着いた、だがはっきりとした意識が感じ取れる。
『何だ?』
敢えて素っ気ない返答をする私にも、狼狽えたり臆したりする気配はない。
『私、夢を見てました』
私が踏み込んでいたのを知ってか知らずかそう言ってくる山下沙奈に対して、私はやはり冷淡だった。
『そうか…』
それでも気配は変わらない。
『嫌な夢だったけど、最後は先輩が助けてくれたんです』
その言葉からは、ただ私に対する謝意だけが伝わってきた。裏も表もない、ただの感謝の気持ちだ。だが、私に慣れ合う気はない。
『私を勝手に夢に出演させるな。出演料を取るぞ』
無論、出演料というのは冗談だ。少なくとも今回は、私の方から踏み込んだのだからな。山下沙奈がそんな私に対して微笑んでいる気配が伝わってきた。
『それは困りますね。私、今、一文無しですから』
私の冗談にそう返す。
『……』
私は言葉を途切れさせた。もう、何を言ってもこいつは動じないと思った。
『先輩…ありがとうございます』
静かに伝えられたその言葉には、感謝だけでなく、私に対する畏怖と敬愛の情が込められているのが分かる。それはもはや信仰に近かった。
『知らんな。お前自身の問題だ。私には関係ない』
突き放すような言葉を向けても、山下沙奈の精神が揺らぐことはなかった。
元々口数が少なく積極的でなかった山下沙奈との交流はさほど濃いものではなかったが、簾のように目を隠す長すぎる前髪が少々鬱陶しいと感じたことがあるくらいで、こいつのことを特に疎ましいとか感じたことは、これまでも別になかった。ウリをしているなどという下衆な噂に対しても、そんな噂を流してる連中を愚かだと思っていたくらいでしかない。それは本来の私の意識が目覚める前の、月城こよみとしてもそうだった。仮にも同じクラブの部員として、単純に仲間意識を持っていただけだった。
だが、山下沙奈にはそれが心地好かったのかも知れない。自分を特別扱いせず、見下すことも、同情することもせず、ただ一人の後輩として接していた月城こよみのことを、先輩の一人として快く思っていたのだろう。そこに、自分が激情に駆られて行ってしまった過ちを巻き戻し、さらには長年にわたって苦しんできた問題に大きな道筋を示し、かつこのようにして気にかけてくれる存在となったことで、単なる先輩の一人という以上の気持ちを抱いてしまったのだとしてもそれは当然のことなんだろう。
しかし私に、山下沙奈に対する同情はない。その境遇を憐れんだ訳では決してない。ただゲベルクライヒナが行ったことの後始末をしただけだ。そして、それがもたらしたことの経過を観察しているだけだ。たったそれだけのことでさえ信仰に等しい気持ちを持たせるきっかけになってしまう程に、山下沙奈の境遇が過酷だったというだけにすぎない。
ただ、よくここまで持ち堪えたものだという点においては、ほんの少しだが感心しない訳でもないかったのだがな。
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