疾く来る者

「もういい、俺がやってやる!」


部員のあまりの不甲斐無さに来埋真治くるまいしんじがキレた。顔を真っ赤にして吠える。だが私にとってはせめてお前だけでもいい声で鳴いて見せろということしか興味が無かった。


開始のブザーも待たず、肥土透ひどとおるの体を捕らえ頭からマットに叩き付けた。すかさず抱き上げて再び頭から叩き付ける。何度も何度も同じことを繰り返した。レスリングの投げ技なのだろうが、もちろん教える為のものでは全くない。そもそも、精々五十キロ強くらいしかない肥土透の体と、明らかに八十キロはありそうな来埋真治では体格差があり過ぎた。


それを見ていた黄三縞亜蓮きみじまあれんが青褪めていく。無理もないか。普通の人間なら確かに危険な行為だからな。


「や…やめて……やめて…肥土君が、死んじゃう…」


うわ言のようにそう呟くが、もちろんそんなものは来埋真治の耳には届かない。しかし、その声が届いてる筈の月城こよみも、さほど緊張感もない様子で見ていた。肥土透の表情が見えていたからだろう。最初の方こそ衝撃に備えようと目を瞑り厳しい表情をしていたが、三度四度と叩き付けられる間に、平然とした表情になっていったのだった。


全くこたえないのだ。寝るときに枕に頭を載せる行為がダメージにならないように、今の肥土透にはこの程度のことは枕に頭を載せるほどの感触にもならないのである。だからもう、飽きるまでやらせてやろうという感じだった。


いくら体格差があると言っても十数回それを繰り返した来埋真治がさすがに息を切らし始め、マットに肥土透を叩き付けた後で持ち上げるのをやめ、右腕を取って極めた。確か腕挫十字固とか言う技だったかな。だがこれは、レスリングの技じゃなかった気がするが? まあ、こいつらの目的はレスリングをすることではなく、あくまで肥土透を痛めつけることだろうから、その為なら何でもいいんだろう。


一応、肥土透の方はフォールの体制にならないように左肩を浮かせているが、やはり焦っているような表情もない。それとは対照的に来埋真治は悲壮な覚悟を決めた顔で渾身の力を込めて極めた。完全に骨も腱も破壊するつもりであった。


『一生、箸を持てねーようにしてやるぜぇ!!』


あまりに強くそう思ったのだろう。読むつもりもなかった私にも来埋真治の思考が届いてきてしまった。が、陳腐過ぎる。私がそう思った次の瞬間、来埋真治の顔がみるみる驚愕のそれに変わっていったのだった。


完全に伸び切って間違いなく極まっている筈の肥土透の腕から、骨が折れる感触も腱が切れる感触も伝わってこなかったのである。それどころか、まるで太い鉄の棒にでも抱き付いているかのように、それ以上動かない。折れない、曲がらない。


「ぐぅおぉおおぉおおーっ!!」


獣のように雄叫びを上げ更に力を込めた来埋真治だったが、肥土透の腕が折れる感触どころか、有り得ない感覚を味わっていた。背中に感じていた筈のマットの感触が無いのだ。それどころか、肥土透の腕や体に巻き付けた自分の腕と脚に、自分の体重がかかるのを感じさえした。


肥土透が、完全に極められた右腕一本で来埋真治の体を持ち上げていたのだ。しかもそのまま体を起こし、八十キロを超える来埋真治を右腕一本で支えたまま立ち上がる。


「なあっ!?」


驚く暇もなく、肥土透の右腕と共に高々と振り上げられてから、来埋真治の体は頭からマットに叩き付けられたのだった。


「げひっっ!!」


まるで自動車に撥ねられた豚のような声を上げて、来埋真治が悶絶した。しかし、叩き付けられる寸前に受け身を取ったらしく、気を失うようなことはなかった。だがそれでもあまりの衝撃に意識は朦朧となり、すぐに起き上がることができないようだ。


そんな来埋真治の体を肥土透は無理矢理立たせ、背後を取った。そしてそのまま凄まじいスピードで後ろに反り返る。ジャーマンスープレックスというやつだった。完璧なブリッジが実に美しい。しかも両足でマットを蹴って体を浮かせ半回転し、着地してそのまま再びジャーマンスープレックスを繰り出した。さらに同じように半回転し、三度ジャーマンスープレックスを敢行する。それはもはやレスリングなどではなかった。完全にプロレスだった。


私は、その光景を見て、月城こよみとして生まれる以前の記憶が蘇っていた。それは、プロレスに熱中し、丸めた布団を相手に見立て、ジャーマンスープレックスの練習をしていて首の骨を折りそのまま亡くなったという、女子高生の記憶。みっともない記憶を思い出し頭を抱える私の前で、四度目のジャーマンスープレックスを食らわせそのままフォールの体勢を取った肥土透が、意識を失った来埋真治を放り出して見下ろしていた。


結局、大して鳴いてくれなかったが、嫌なことを思い出していた私はそれどころではなく、私の顔色を窺う肥土透に向かい、


「ああもういい、後は好きにしろ…」


と言うのが精一杯だった。


すると肥土透は他のレスリング部員を見回し、


「もう終わりですか?」


と尋ねた。しかし来埋真治がこうなってしまってはもう肥土透に挑もうなどという者がいる筈もない。


「じゃあ、これで終わりでいいですね?」


念を押す言葉に頷くしかできないのを確認して、肥土透はユニフォームを脱ぎ捨てそのまま服に着替えたのだった。その体は汗一つかいていなかった。こうしてコントにもならない馬鹿馬鹿しい茶番は幕を閉じた。


私は無駄な時間を過ごしたと不機嫌になり、そのまま他の連中には目もくれず学校を後にする。


残された肥土透、月城こよみは苦笑いを浮かべ、黄三縞亜蓮は熱っぽい視線で肥土透を見詰めていた。


だがその時、


「!?」


肥土透と月城こよみの背筋に、ぞくりとした冷たく固いものが走り抜けていく。それは今まで感じていた、自分達に向けられていた敵意や害意とは次元の違うものだった。何かがこの空間に滑り込み、支配するのが感じられた。


「え…? どうして…? 何でこいつが…?」


月城こよみの唇から、本人も意識していない言葉が漏れた。そのあまりに高次の存在に、普段は引き出せなくなっている記憶が呼び覚まされ、溢れてしまったのだ。


きたる者…、ハリハ=ンシュフレフア…!?」


月城こよみが口にしたその名前そのものは理解できなかったが、肥土透にもそれが普通の存在でないことだけは瞬時に分かった。クォ=ヨ=ムイに対して感じているものと同等以上の何かがそこから発せられているのを感じ取れてしまう。全身が総毛立ち、途方もなく恐ろしいものだというのが電撃のように伝わってきていた。


それは、禍々しい澱んだ空気の渦のようでもあり、同時に凄まじい力を持った何かだった。その向こうに、ようやく意識を取り戻し肥土透の姿を見付けてこちらに近付いてこようとする古塩貴生ふるしおきせいの姿が見えた。


「っの野郎…!!」


と毒気づく古塩貴生には、見えていなかったのだ。その恐ろしい存在が。


「だめっ! 止まって!!」


月城こよみが叫んだが、手遅れだった。目に見えないそれと古塩貴生の体が重なった時、禍々しい何かが肉の中に溶けて混ざるのが分かった。その瞬間、古塩貴生だったものは、全く別の存在へと変化していく。


「肥土君!!」


月城こよみは叫びながら肥土の腕を掴み引き寄せ、同時に黄三縞亜蓮を庇うようにその前に立った。それとほぼ同時に、レスリング部部室の空間に目に見えない無数の何かが出現し、凄まじい勢いで渦巻いた。


それは、刃だった。人間では認識することさえできない、空気の刃だ。そして、部室の中にいた人間の体が細切れの肉片と血の塊に変化するのに、一秒とかからなかったのだった。


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