本当にどうでもいいもの

フィクションでは、<殺人者>はえてして、まるで人間ではない別の生き物のような特異なメンタリティを持っていると描かれることが多い。


だが、本当にそうか? 人間を殺せる人間は、<普通>ではないのか? 


では、戦場に行って何人もの敵兵を殺してきた人間は、人間ではなくなってしまったのか? それは第二次世界大戦で徴兵され戦場に行った自分の祖父や曾祖父を『狂人だ!』と罵ってるのと同じにはならないか?


なるほど中にはいかれた<狂人>としか言いようのない奴もいるだろう。だが、別に全員がそうだというわけでもあるまい?


藍繪正真らんかいしょうまがもし<普通の人間>に見えるとしたら、まさにこいつは普通の人間なのだ。ただ単に、


『他人を殺さずにはいられないくらいまで追い詰められた』


だけでな。


そして藍繪正真らんかいしょうまは、道徳教育なども学校で受けて、


『人間には人権がある』


というのを当たり前として織り込まれた現代日本で生まれ育った人間であるため、


『奴隷との接し方』


などというものを感覚として身に着けていなかったのだ。


いくら<人権>という単語に嫌悪感を覚えていて人権という言葉を使う人間を見下し嘲っていようとも、無意識にまで刷り込まれた人権意識というやつはそうそう消えるものでもない。人間を本当に<物>として扱う感覚など、そう簡単には育たない。


もちろん、見ず知らずの少女に対し殺す気で包丁を振り下ろそうとできるような奴だ。<お人好し>と呼ばれるような人間に比べればはるかに他人に対して冷酷で残忍ではある。


だがそれもあくまで、


『現代日本人の一般的な感覚に比べれば』


であろう。


だからトレアにとって藍繪正真らんかいしょうまは、彼女がこれまで見てきた人間達とは明らかに違っていた。


『優しい』のだ。自分を明らかに人間として見てくれているのが分かるのだ。


他の人間達は、奴隷を、<物>、または良くても<家畜>としてしか見ない。


現代日本でも自動車などに対しては異様なほどの愛着をみせ大事にする者もいるとはいえそれは必ずしも多数派ではないし、ましてや壊しても構わないような<いわくつきの安物>をそこまで意識して丁寧に接することもないだろう。


つまりはそういうことだ。


藍繪正真らんかいしょうまとしては特に丁寧に接してるつもりなどないが、それでも、どうでもいい安物のポンコツ自動車や壊れても構わないとして買った中古のスマホと、生きた生身の人間とを、完全に同列と見做して扱うことがそもそもできない。そんな感性が持てるような環境では育ってきていない。


あくまで、トレアを人間として認識した上で突き放しぞんざいに扱ってるだけだ。それは、


<本当にどうでもいいものを見る時の無関心無感情>


とは、違っていたのである。


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