新伊崎千歳の悪態
「文句は聞かんと言った筈だ。いいからとっとと入れ」
こちらの家は中も建てられた当時のままだから、掃除は綺麗にできていても古さは当然のように感じる。しかも居住スペースとしては使っていないから何も置いていない。ぐるりと見まわして千歳はげんなりといった顔をして呟いた。
「貧乏くっさ…」
だが、千歳が嫌な顔をしているのは、この家が古臭くてしみったれてて貧相な所為だけじゃないだろう。恐らく思い出しているのだ。自分の本来の家を。そちらもこの感じだからな。その時、
「文句があるなら出て行けばいい。他人にたかろうなどという寄生虫の分際で調子に乗るな」
と、不意に部屋の奥から声を掛けられて千歳はギョッとなった。掃き出し窓を開けてそこから私が、
「誰…? 何なのこのガキ?」
怪訝そうな顔で私を見詰める千歳が吐く悪態には構うことなく私は言った。
「私がこの家の
その言葉にムっと来たらしく、千歳は影の私に向かって何とも言えない顔をした。
「何こいつ? あんたの娘? どういう躾してんのよ」
とか、どの口が言うんだか。
「娘などではない。ついでに言うとガキでもない。私から見れば貴様など、大腸菌よりも矮小な存在だ」
日守こよみと影の私が同時にそう話し、日守こよみの方へと歩み寄った影の私は煙のように形を失い揺らめいた後、ふっと空気中に溶けて消えた。
「…な…!?」
ヴィシャネヒルが消えた時と同じように人間の姿をしたものが消えるところを改めて目の当たりにした千歳が驚きの表情をしたが、それでもすぐに、
「ちくしょう! やっぱり何かクスリ使っただろ!? 私はそういうのは嫌なんだよやめろよ!」
と、薬物の影響による幻覚と解釈したようだ。まったく、おかしなところで常識に囚われた発想をする奴だな。
だが、そんな千歳に
「お姉ちゃん、そいつのことはいいからこっちに来て」
『そいつの』とかずいぶんな言い草じゃないかと思いつつ、私は新伊崎千晶に促されて戸惑いながらも二階へ上がっていく千歳を見送った。何だかんだで似た者同士ということか。あの姉妹も。
千歳を伴って二階に上がった新伊崎千晶は、黙って窓を開けた。するとそこにはまた部屋があって、千歳は『へ…?』と呆気にとられた表情になった。
「何これ、変な家」
そう言いながら窓越しにその部屋を覗き込んだ時、千歳の顔がみるみると驚愕のそれに変わっていった。
「…ま、さか…これ、私の部屋…?」
そうだった。今、新伊崎千晶が使っている部屋は元々は千歳の部屋として使われていたものだった。だから部屋の作りや壁の落書きの跡など、見覚えのあるものを目にして、そのことに気付いてしまったのだ。
「何なのよ、一体どんなクスリ使ったっていうのよ!?」
この期に及んでもまだ薬物の影響だと思い込もうとする千歳に、新伊崎千晶は窓を越えて自分の部屋に入り、
「いいからこっちに来てよ。お姉ちゃん」
と手を差し出した。恐る恐るその手を取って、千歳もミニスカートのまま窓を越えてかつて自分の部屋だったそこへと踏み入った。
改めて部屋の中を見回すと、千歳の脳裏に昔の記憶が蘇ってきた。こいつ自身は自分の部屋だと思っていたが実際には千晶と共同で使っている部屋で、邪魔者だった千晶に散々当たり散らしたというのが事実だった。ある時には思い切り蹴飛ばしたことで千晶がタンスに激しくぶつかりぐったりしたなどということもあった。思い出されるのはとにかくロクでもない記憶ばかりだったが、それでもどこか懐かしいという気持ちにもさせられていたようだ。
だが、千歳はそんな思いを振り切ろうとでもするかのように頭を振った。
「…今さら何よ……こんな家、帰ってきたくなんかなかった……」
しかし吐き出すように呟いた言葉には力が込められていなかった。
再び窓を越えて私の家の方に戻ってきた二人に向かって私は言った。
「風呂でも入るか? とりあえず沸かしておいたから、後は好きにしろ」
こちらの家の風呂は自動で沸くタイプではないが、私が力を使って沸かしてやったからもう入れる状態だ。
「いいわよ、入ってあげるわよ」
と、世話になってる身の分際でなかなか舐めたことを言ってきた。だが私はそれには取り合わなかった。
「タオルも替えの下着も新品を用意してある。勝手に使え」
その言葉の通り、風呂場に面した床には新品のタオルと下着を置いてある。私がわざわざ作ってやったのだ。しかも、下着はイエロートライプのデザインそのままに、サイズだけ千歳に合うように作ってやった。感謝しろ。
にも拘らず、千歳は風呂を見るなり、
「何これ小っさ、貧乏臭っ!」
だと。まったくいちいち文句を言わなければ風呂一つ入れんのかこのトンチキが!
しかし実際には、それは千歳の家の風呂と同じ作りの風呂だった。こいつはずっとこの風呂と同じものに入ってきてたのだ。その時のことが頭をよぎり、だがそれを振り払おうとして文句をつけたのだった。
まず体を洗って湯船に浸かるが、膝を抱えないと全く入れない大きさに、千歳は思わずつぶやいた。
「こんなに小さかったんだ…」
自分の家の風呂を思い出して漏らした言葉だった。久しぶりに入ったことで、改めてその小ささを実感してしまったのだろう。普通の人間には全く聞き取れないほどの声だったが、私には筒抜けだった。
もっとも、そこでセンチメンタルな気分に浸るほどこいつはまだ歳を重ねてはいなかった。
「こんなんじゃ疲れなんて取れっこねーだろ。なに考えてたんだ昔の日本人…!」
と、一畳風呂を考案した人間に対しても文句をつけていた。本当に面倒臭い奴だな。
だがその時、新伊崎千晶が風呂場の前に立って千歳に声を掛けた。
「お姉ちゃん、一緒に入っていい…?」
その突然の申し出に、「はあ!?」と千歳が素っ頓狂な声を上げた。
「あんた何言ってんの? こんな狭い風呂に一緒に入れるわけないでしょうが!」
いや、別に一緒に湯船に浸かりたいと言ってるわけじゃないと思うが……
そんなことを考えつつ、私は敢えて口出しはしなかった。すると新伊崎千晶も「体を洗うだけだから」と声を掛けて、千歳の返事を待たずに服を脱いで風呂場へと入った。
「ちょっとあんた、何考えてんのよもう…!」
不満げにそう言う姉に対し、「ごめん…」と口にしながらも新伊崎千晶は体を洗い始めた。
「一緒にお風呂入るなんて、初めてかな…」
そう言った妹に対して姉は、
「は…? あんたがまだ三歳とかの頃に私が風呂に入れてやってたでしょ。覚えてないの?」
と苛立ちを含んだ声で訊き返していた。再び「ごめん…」と詫びる妹に、
「何それ信じられない。恩知らずにもほどがあるでしょ」
などと言っていたが、三歳程度の頃など覚えてなくても当然だ。そんなことも知らんのかこの馬鹿者は。と、私は半ば呆れていた。
しかしその後はお互いに口をきくこともなく、新伊崎千晶が体を洗い終えて立ち上がったのを見ると千歳も湯船から上がり、風呂場から出て来た。が、中である程度体を拭けばいいものを一切そうせずに出てきたものだから、床が見る間にびしょ濡れになった。私は別に気にしないが、こんなことをしていたらあっという間に床が傷んでしまうなとは思った。
開き直ったと見えて体を隠そうともせず、千歳はバスタオルで全身を拭った。若さだけが頼りの、およそ何の手入れもしてないだろうというその肉体を見た瞬間、十年後には見る影もなく衰えてるだろうなと私は感じたのだった。
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