温かな家庭

体の中でギリッと力を纏め上げつつ、私は構えを作った。両手を軽く開いて顔の前に掲げ、じりじりと距離を詰める。だが、距離を詰めれば詰めるほど、サタニキール=ヴェルナギュアヌェの圧力は増し、私の影の体の皮膚を焼くかのような感覚さえあった。力が拮抗している、いや、奴の方が上回っていることを敏感に感じ取っているのだ。


単純に肉体だけで比べれば、間合いも筋力も質量も圧倒的に奴の方が上だ。技量では私の方が上回ってるかも知れないが、それで補えるような差ではない。普通に考えれば無謀以外の何ものでもない。


だが、私は、クォ=ヨ=ムイだ。このような下賤の輩などに後れを取るなど有り得ぬ。例え本来の私の髪の毛一本分程度の力しか使えなくとも、負ける訳にはいかん。


だが、そんな私に奴は言った。


「ふん……今はまだ私とて貴様を相手にしている暇などない。また、日を改めよう……」


その言葉が終わりきらないうちに、奴の姿が空気に溶けるようにして消えた。結界も消えている。


「ふーっ」


と息を吐いた私の体が冷たい汗で濡れているのが分かった。まったく、この私が冷や汗などとは、実に業腹だな。


「あ~、なに~? もう終わりなの~? つまんな~い」


力無くソファーにもたれかかってこちらを見ていた碧空寺由紀嘉へきくうじゆきかが涎を垂らしヘラヘラと笑いながらそう言った。立ち上がることもできずに観戦していた奴らは皆、同じような有様だった。


「ふん……」


私は碧空寺由紀嘉の前に立ち、巻き戻してやった。薬物の影響を受ける前の状態にな。すると急激に顔の筋肉に力が戻り、意識がはっきりしてくるのが見た目にも分かった。


「な…何よ、あなた……どうするつもり…?」


冷たく見下ろす私を上目遣いで見ながら、碧空寺由紀嘉が問い掛けてくる。随分と間の抜けた質問だ。


「別に……貴様がどうなろうが知ったことではない。だが、随分と不様な姿になったものだなと思っただけだ…」


私は掃き捨てるようにしてそう言い残し、床に寝そべっている連中も巻き戻してやってその店を出た。


今の私の姿は碧空寺由紀嘉からすれば全く見ず知らずの人間の筈だから、そんな相手にいきなりそのようなことを言われても戸惑うだけだろうが、それでも『不様な姿になった』という部分には心当たりもあるだろう。


そのことをどう感じるかは碧空寺由紀嘉自身の問題だ。これで気付くならそれでよし。気付かないなら、それはもう奴自身の招いたことでしかない。私には関係ない。


ただ、サタニキール=ヴェルナギュアヌェについては、今後絡んでくるなら次こそ始末してやる。日守かもりこよみの肉体でならもはや負けることはないからな。


そして私は、空間を超越し自宅へと戻ったのだった。




翌日は土曜日だった為に学校はなかったが、私の家には月城つきしろこよみ、肥土透ひどとおる黄三縞亜蓮きみじまあれんの三人が当たり前のようにいた。


が、黄三縞亜蓮はまるで豚の様にケーキを頬張っていた。


「なんかもう、食欲が抑えられなくって。食べても食べてもすぐにお腹減るの」


だと。


「それって、赤ちゃんがいるのとか関係あるのかな?」


月城こよみが疑問を口にする。


「おそらく、<食べづわり>というやつだろう。いわゆる<つわり>と言えば吐き気をもよおしたりというのを想像するかも知れんが、実はそういうのが殆どなくて逆に異様に食欲が湧いてくる例もあるのだ。ましてや、今、お前のはらの中にいるのはカハ=レルゼルブゥアに憑かれた胎児だ。そいつが尋常じゃなくエネルギーを欲してるのだろう」


私の言葉に、黄三縞亜蓮を始めとした四人が感心したような顔をした。山下沙奈以外の三人に至っては、


「お~…」


と声まで漏らす始末だった。


「そっか、だからこんなに食べてもぜんぜん太らないんだ」


ケーキを口に運びつつ、黄三縞亜蓮は言った。とは言え、普通の人間の場合ならそれは母体の方に蓄えられる筈だから本来は体重が増えたりするのだが、こいつの場合はやはり事情が違うのだろう。さすがの私も邪神に憑かれた子を宿した経験はないからどこまで正確かは保証の限りではないが。


しかし、もう既に二ヶ月以上が経過してる筈だな。これからみるみる状態が変わってくるぞ。腹も大きくなってくるだろう。そうなればもう隠し通せはせん。


それでも、体育の授業などはまだこれまで通りに出ているようだ。もっとも、安定期とやらに入る以前だろうとカハ=レルゼルブゥアが守るだろうから、流産の心配など考慮する必要もないだろうがな。流産されて困るのは奴の方だ。さりとて、腹が大きくなってくればさすがに母体の側の負担が大きくなりすぎるだろうが。


「学校へはいつ告げるつもりだ?」


私が問い掛けても、相変わらず、


「うん、まあ、そのうちにね」


と呑気なものだ。確かに人間の手での堕胎など、カハ=レルゼルブゥアがさせてくれん。下手な真似をすれば病院ごと焼き払われる可能性もある。奴を殺せるのは私クラスの存在でなければ無理だ。もうここまで育ってしまってはな。だから告げようと告げまいともはや人間の力ではどうすることもできん。


両親には既に打ち明けているそうだ。


さすがに驚いたそうだが、今では黄三縞家の親子の立場は完全に逆転している。娘の言うことに両親は逆らうこともできん。父親の認知も受けずに自分で育てると言われても、それを受け入れるしかないのだ。


まあ、経済的には何の問題もないし、育児については複数のベビーシッターを雇い万全の体制を整えると言っているから、その辺の普通の家庭よりよっぽど恵まれている訳で、心配などしても意味がないだろう。


だがそういうこと以上に、今のこいつらは赤ん坊の誕生を楽しみに待ちわびているのが実際のところだった。まるで兄姉が弟妹を心待ちにするかのように明るく微笑ましい空気を作り出していた。


月城こよみに至っては、自分の小遣いでベビー服まで買ってくる始末である。しかも、それを見た黄三縞亜蓮は天啓を受けたかのように、


「イエロートライプでもベビー用品の展開を始めよう!」


と言い出し、実際に商品開発を始めているとのことだった。近々、第一弾としておむつカバーを販売するつもりらしい。


ティーン向けのアンダーとして商品を販売していたイエロートライプだが、可愛いもの好きの20代女性にもファンは多く、その辺りなら十分にターゲットになるとの読みだった。まあ、この後、その読みは大当たりして一気に業績を伸ばすことになるのだが。


自身の家庭では相変わらず報われない月城こよみ、肥土透、黄三縞亜蓮の三人だが、こういう奇妙な形ではあっても疑似的な家族としての幸せは掴みつつあると言えるだろう。


ただそうなると、肥土透と黄三縞亜蓮が生まれてくる子の両親となるだろうし、月城こよみはどういう立場になるのやら。愛人か…? それとも乳母か…?


いずれにせよあまり微笑ましいとは言えそうにない立ち位置になりそうな月城こよみの将来を思い、私は思わず生暖かい目で見てしまった。それに気付いたこいつは、


「何よその目。またロクでもないこと考えてるでしょ?」


と睨み返してきたのだった。


だがそれでも、こいつらが良いと言うのなら私が口出しすることではない。


元より、クォ=ヨ=ムイとしての意識が目覚めなければどうせただの人間としてそれこそ凡庸な人生を送るか、前世やそのまた前世の人間としての私のようにロクでもない最期を迎えるかだろうから、幸せとやらを掴めるというのなら、それがどういう形であろうと別に構わないのだ。


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