山下沙奈
「しかし暇だな…」
学校のことなどについては<もう一人の私>に任せていた私は、保健室のベッドで寝ているのにも飽きて、
「そうですか~? 私は結構忙しいですよ」
ネットで呟きつつ石脇佑香はそう言った。この時間はアニメをやってないが、アニメの感想をまとめたサイトの巡回には確かに忙しそうだ。その時突然、忌々しそうに呟いた。
「あん、もう、まただ。ここも制限かかってる。学校のLANだからって厳しすぎ」
…学校のLANにタダ乗りしておいてよく言う。とは言え、私達にはもう人間の法律や倫理観は関係ないのだがな。
「だったら、その辺の家庭用無線LANから入ればどうだ?」
と、私も、人間なら確実に不正アクセスとして刑事罰もあることをサラッと提案する。もっとも、私達は機械ではないから、機械的なセキュリティは関係ない。機械の側に制限をかけるタイプのセキュリティでは、今の石脇佑香の侵入は防げないのである。機械ではないからルーターなどが端末であると認識できず、パスワード等を要求してこないのだ。機械から見れば私達は単なるノイズのようなものでしかないということだな。
とは言えそれも、サーバー辺りがWAN側の通信相手をブロックしている場合は、通信そのものができないからアクセスできないってことにはなるわけで、そこから先はクラッキングの技術などが必要になってくるが。だから石脇佑香は学校の制限を超えられないのである。それを超える技術を教えるよりは家庭用の無線LANから入った方が早いし楽だ。
「ダメだ~。電波が弱すぎてうまく捉まえられない。あ、でも、慣れたら何とかできそうかな」
そんな風に残念そうに声を上げるが、そこで慣れたら何とかできそうとすぐに考える辺りが大したものだと私は思った。すると石脇佑香が不意に問い掛けてくる。
「ところで、クォ=ヨ=ムイさん、じゃなかった月城さんは今日の校内キャンプには参加するんですか~?」
ああ、そう言えばそんなこともあったな。言われて思い出し、答える。
「自分の両親が行方不明だというのにそんなものに参加する方がおかしくないか?」
私の言葉に石脇佑香がハッとなる気配があった。
「そうでしたそうでした。ごめんなさい」
やれやれ。こいつも明らかに私の感覚に近付きつつあるな。人間であれば気にしそうなことに対する認識が間違いなく軽くなってきている。自分が人間であったことを忘れつつあるとでも言うべきか。今の自分を受け入れろとは言ったが、この順応性の高さにはむしろ呆れさせられる。
今日の朝の時点までは山下沙奈の境遇などについて言葉を詰まらせるなどの反応もあったというのに、それ以降、急速にそういう反応が失われている。おそらく、自分が肉体を失ったことを自覚してしまったのだろう。それによって人間的な情動が一部欠落しつつあるのだ。
ンブルニュミハを使って人間のような生物を含めあらゆるものを記録して悦に入っている連中は、この辺のところを分かっていないと私は以前から思っていた。人間を完璧にデータによって再現しているつもりなのだろうが、肉を持つ生き物には肉が存在することそのものに依存する情動というものがあることが理解できていないのだ。奴ら自身が既に自らをデータ化してしまったことで、忘れてしまったのだろう。奴らは私が存在する遥か以前からそれを続けてきたという。
石脇佑香に対しては奴らの<書庫>に記録されることは名誉なことだと言ったが、私自身は少しもそんなことは感じていない。奴らの自己満足の産物など、私にとってはどうでもいいことだった。とは言え、人間にとっては非常に得難い経験であり、奴らが集めた膨大な記録そのものが無価値かと言えば必ずしもそうではないのだがな。しっかりした環境を整えてやれば肉を有してる感覚までも再現できるだろうし。
実際、私も既に記録されており、書庫の中の私と同期した時に感じた感覚からすればそこでは肉を有している感覚まで高い次元で再現されてはいるようだ。だがそれでも、完全かと言われれば私はそうは思わない。ましてやこんな陳腐な鏡などに焼き付けられてしまっては、肉の感覚の再現など及びもつかんだろう。
だから私は言ったのだ。『人間としては死んでいる』と。人間ではない別の存在としては生きていると言えるかも知れないが、肉の感覚を失った石脇佑香はもう、かつての自分を再現できなくなってしまっているのである。
もっとも、人間自身、常に代謝によって細胞が入れ替わり、ある程度の期間を経てしまうともう総てそれまでの自分とは全く別のもので構成されているのだから、完全に同一ではないとも言えるわけで、それの少々極端なものだと解釈しようと思えばできなくはないかも知れないが。
この石脇佑香が今後どうなっていくかは、私にも分からない。完全に人間の感覚を失い怪物と化すのか否か。まあ、折角だから観察は続けさせてもらうがな。
そんな私の思考を知ってか知らずか、石脇佑香は相変わらずご機嫌でネットを楽しんでいる。これはこれで本人は幸せなんだろう。
だがやはり、こうやって石脇佑香だけを見ているというのも退屈だ。こいつはもう私がついていなくても平気なようだし。なので、山下沙奈の方の様子を見てみる。
『どうだ? 変わりないか』
事件から二日が経ち、警察病院に入院している山下沙奈の意識に声を掛けてみた。
『はい、大丈夫です…』
相変わらず勢いというものが無い言葉だが、落ち着きは取り戻したのが分かる。
『退屈してるんじゃないか?』
その私の問い掛けには、
『いえ、本が借りられますから』
と穏やかな感覚が返ってきた。しかも、穏やかさの中に喜びも含まれている。ゆっくりと誰にも邪魔されず本を読めるという環境が嬉しいのだろう。それを裏付けるように、山下沙奈は言った。
『こんなにゆっくり本が読めるのは初めてです。家だといつも誰かがいて落ち着けませんでしたら。だから嬉しくて…』
その言葉とともに、柔らかく微笑んでいるのが伝わってきた。自分だけの時間を贅沢に使える今に満たされているようだ。
『そうか、邪魔をしてしまったな』
そう言った私に、首を横に振る感覚が届く。
『先輩が傍にいてくれるのはもっと嬉しいです。私、もっと早く相談してれば良かったって思います』
まるで親に甘える子供のようにそう言う山下沙奈に私は思わず苦笑する。
『起こってしまったことに、たらればは意味はない。それに、お前の置かれてた状況は多少の時間の前後程度では大きくは変わらなかったさ』
あまり擦り寄られてもつまらんので少し突き放し気味にそう言う私に、
『そうかも知れませんね』
と微笑みながら応えるのが伝わってきた。まったく、脆弱な癖に動じん奴だ。
『まあとにかく今はゆっくりと休むことだ。学校に出てくればいろいろ言われることになるだろう。その為の覚悟も決めなきゃならんからな』
そうだ。こいつの境遇はこれからも決して楽ではない。下衆い干渉をしてくる人間はむしろ増える筈だ。だが山下沙奈は言った。
『先輩がいてくれたら、私、平気です』
やれやれ。懐き過ぎだな。私はそんなに甘くはないぞ。
『だといいがな。だがまあ、自然科学部の連中もお前の味方をしてくれるだろう。お前に覚悟さえあれば、新しい場所に逃げるよりも楽かも知れん』
そう言った私に、
『ありがとうございます』
と、山下沙奈は笑ったのだった。
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