紫崎麗美阿 その1
幼い頃から父親は仕事仕事で殆ど家におらず、休日も何かと理由をつけては外出していた。だから幼い頃は自分には父親はいないものだと思っていた時期さえある。
だが、それを寂しいと思ったことはなかった。母親がいつも傍に居てくれたからだ。お風呂も一緒に入ってくれるし、自分が寝るまで傍に居てくれる。だから父親なんていなくても平気だった。
けれど、彼女は知っていた。自分が寝た後で母親が一人で酒を飲みながら夫に対する恨み辛みを夫に見立てたぬいぐるみ相手に吐き出していたことを。彼女が他人の陰口を並べるようになったのは、その母親の姿を見ていたからかもしれない。
それだけでなく、たまに家に帰ってきた父親も、母親に対して冷酷で辛辣な言葉を投げつけるばかりで、家のことをすべてしてくれている点と娘の養育をすべてしてくれている点に対して労いの言葉一つかけたことがなかったのである。妻は、「お疲れ様でした」と労ってくれるというのに。
恐らく父親は、母親のことを家政婦か何かだと思っているのだろう。給料を払う代わりに養ってやっているという認識なのだと思われる。
しかし、金さえ持って帰ればいい父親という訳ではない。金さえ持って帰ればいいのであれば、他の誰でもいいということでもある。もしくは、金の心配さえ要らなければいなくてもいい存在ですらある。むしろ気遣わないといけない煩わしい相手とみなされて疎まれることさえあるだろう。
実際、この時には既に、娘にとってこの父親は、<金を持って帰るしか能がないクセにママを苦しめる下衆男>という存在でしかなかった。そこには愛情も尊敬も信頼もない。
自分が稼いでるんだから生活できるんだ。感謝しろ。
そんなことを言えば彼女はこう言い返すだろう。
『その程度の稼ぎしかない社畜風情が偉そうにするな!』
と。それで父親がキレようものなら、
『悔しかったら社畜を使う側になってみせろ!』
とも言うに違いない。それは、母親がぬいぐるみ相手にこぼしていた愚痴を要約したものである。彼女はしっかりと母親から価値観を受け継いでいた。
それでも、紫崎麗美阿にとって母親は自分のことを大切にしてくれるかけがえのない存在だった。金で置き換えることのできる父親などと違って、代わりになるものがいない存在であったのだ。
なのに、彼女の母親は乳がんを患い、呆気なくこの世を去ってしまった。
『なんで…? どうしてママが……?』
その疑問に決着がつくより先に、父親は新しい家政婦とばかりに一年もしないうちに別の女性と再婚したのであった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます