貴志騨一成の慟哭
さて、
別に放っておいても構わんのだが、奴が食った人間を巻き戻したことでまた腹をすかしてる筈だ。すぐにでも別の人間を襲うだろう。騒ぎが大きくなると面倒だ。
気を失ったままの碧空寺由紀嘉を、空間を超越して本人の部屋のベッドに放り出しておいた。これでまた夢でも見たと思うに違いない。化物に頭からかじられるとか悪夢以外の何物でもないだろうが。
ついでなので碧空寺由紀嘉の部屋をぐるっと見回してみたが、これはこれは、また甘ったるい思春期の小娘の臭いが立ち込めてる部屋だな。いかにもなぬいぐるみやアイドルのポスターと、何か見本でもあるのかというような分かりやすい部屋だ。しかも部屋のドアには内側からカギが掛けられるようになっている。なるほど親に隠れて男と色欲まみれのやり取りもしやすそうだ。親に操られる人形のせめてもの抵抗と言うところか。
再び貴志騨一成の自宅前に戻り、改めて気配を探る。と、いた。思った程は遠くに逃げてなかったな。だが、おっと、これはマズい。次の犠牲者が近付いてるぞ。と思い空間を超越したが、間に合わなかった、既にコボリヌォフネリがその人間の首筋に食いついたところだった。
だが、何か様子がおかしい。コボリヌォフネリが食いついたまま動かない。それどころか…、こいつ、震えているのか?
そうだ。通りがかった若い女の首筋に食いついたまま、奴は震えていたのだった。なにが起こっているのかと様子をうかがってみて、私は気付いた。
「
そう、コボリヌォフネリが食いついていたのは、自然科学部部長の代田真登美であった。ビクンビクンと痙攣を起こし、それももう数秒で終わるであろう状態だった。そんな代田真登美の首筋に食いついたまま、コボリヌォフネリが震えていたのだ。しかも、よく見れば涙をこぼしながら。
やがて痙攣さえ収まり完全にただの肉の塊と化したその体を、コボリヌォフネリは貪ろうとはしなかった。ゆっくりと口を離し、しかも大事そうに抱えてそっと地面に寝かせた。
『そうか…こいつ、まだ貴志騨一成としての意識が残っているのだな』
自分が襲い掛かったのが代田真登美であったことに気付いてしまったのだろう。他人が成り済ましていたとはいえ自分を騙していたことになる碧空寺由紀嘉はともかく、自分の家族でさえ次々食い殺したにも拘わらずこれか。こいつにとって代田真登美の存在は、私が想像していたよりずっと大きかったのかも知れんな。
「どうだ? 憧れの女の肉は美味いか?」
私が問い掛けると、ビクッと奴の体が跳ねた。豚を思わせるその顔をこちらに向け、イヤイヤをするように首を振った。涙がボロボロとこぼれて落ちた。
「ガ…、グァ、ガ、ガ…ア」
何か喋ろうとしたらしいが、こいつの喉から口にかけての構造は、人間のように声を発することができるものじゃない。意味のある言葉にはならなかった。それでまた、自分が喋ることさえできない怪物になってしまったことを思い知らされたようだ。線路脇の暗がりで、醜いそいつは憐れなくらいにうなだれていた。
その時、電車が近付いてきた。特急電車だった。当分停車駅のないこの区間だと、ほぼ最高速度で走っているようだな。それを見たコボリヌォフネリが突然動いた。
私は軽く身構えたが、奴はこちらには向かってこなかった。一見しただけなら鈍重そうにも見えるその体を奔らせ、金網を軽々と飛び越え列車の前に躍りでたのだ。
ドシャッッ!
という、湿った塊が固いものに激しくぶつかる音と共に、その姿が見えなくなる。
…そうか、それがお前の選択か。
殆どの女達からは『生理的に無理』と蔑まれ、擬人化した獣をこよなく愛する異様な人間だったが、お前にも自分の命よりも失いたくないものはあったのだな、貴志騨一成。
なら、他人のアカウントを乗っ取り他人を騙そうとして上っ面の媚びを売るような奴にうつつを抜かさなければ、こんな事にもならなかっただろうに。愚か者め……
お前がこうなってしまったのは、新伊崎千晶に憑いたムァシュフヌレヒニの影響があったとは言え、基本的には人間同士の諍いでしかない。お前に襲われた代田真登美については巻き戻しておいてやる。だがお前を巻き戻してやるわけにはいかんな。
異変に気付き急ブレーキをかけた特急列車が減速しながらも遠ざかっていく様子を視界の端に捉えながら、先頭車両にぶつかりつつ下に巻き込まれズタズタの肉片と化した貴志騨一成を私は見ていた。
それから、こちらもただの肉の塊と化した代田真登美に視線を向ける。自分の身に何が起こったのかも理解できないうちに命を奪われ、絶望の表情を張り付かせたままのその顔には涙の痕が見えた。そういう哀れな姿を晒すこいつを巻き戻すのは簡単だ。一秒とかからん。だが私は、再び貴志騨一成の方を見たのだった。
数秒後、私の足元には、身長は百五十もないのに体重は八十を軽く超える、お世辞にも美しいとは言い難い姿をした人間が横たわっていた。
少し離れたところには、代田真登美も横たわっている。こちらも気を失ってるだけだ。
「おい、いつまで寝ている。さっさと起きろ」
私の足元で寝転がっているそいつの腹を足で軽く突くようにすると、「う…」と小さく呻き声を上げながら動き、やがて目を開けて私を見上げた。
「気が付いたか、貴志騨一成。私が何者か分かるな?」
そう問い掛けると、貴志騨一成は怯えた表情で私を見て頷いた。そうなのだ。こいつは私のことを理解している。正確なことは分かっていなくても、私が自分とは全く格の違う存在であるということは、見ただけで分かっていたのだった。
あくまで気まぐれで巻き戻してはやったのだが、こいつ、コボリヌォフネリとあまりに親和性が高く、完全に融合してしまっていた。分離すること自体は不可能ではないが、少々手間がかかってしまう。だからもう、そこまでする気にはなれなかったのだ。巻き戻しただけでも私が決めた基準に反しているというのに、そんなことまでやっていられるか。
とは言え、結論から言うとこいつが取り憑かれたこと自体がムァシュフヌレヒニの仕掛けによるものだったのが後から確認できた為、巻き戻して正解だったのだがな。さすがに私の勘は鋭いと自分でも思うよ。
それはさて置き、話を進めようか。
私が視線を外すと、釣られるようにそちらを見た貴志騨一成が「あ!」と声を上げた。慌てて体を起こして四つん這いになりにじり寄る。だがその姿に自分が食らいついた痕跡がまるでなく、しかも呼吸していることを確認して、貴志騨一成が腰が抜けたようにその場に座り込んだ。私は言った。
「代田真登美が何故ここにいたのか分かるか? お前の家を訪ねようとしていたのだ。お前がこのところ部活を蔑ろにしてることを心配してな。お前も分かっている筈だ。こいつはそういうやつだ。だからお前にとっても、自分の命より大切だったんだろう?」
「……」
私の言葉に、貴志騨一成は黙ったまま頷いた。私は続けた。
「なら、他の女にうつつを抜かすような真似はやめるんだな。しかもお前が相手をしてたのは、
再び黙って頷く貴志騨一成の頬を、涙が伝っていたのだった。
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