あるサラリーマンの危機

獅子倉修一郎ししくらしゅういちろうは、サラリーマンである。首都圏を中心とした地域の電力を賄う電力会社の社員だ。その電力会社に就職したのは、あくまで人生設計の為であって、別段これといって何か野望のようなものがあった訳ではない。出世コースを駆け上がるような順風満帆さはなくても、大きな波風を立てずここまで順当に人生を送って来た筈だった。


五年の交際期間を経て昨年結婚し、今年娘も生まれた。三ヶ月ではあったが育児休暇も取得し、産後の肥立ちが思わしくなかった妻に代わって子供の面倒も見た。おむつ替えはもちろん、ミルク作りもミルクやりもやったし、入浴も自分の役目になった。特に大柄という訳ではないが妻に比べれば手も大きかったから安心感が違うのだろうか、妻が風呂に入れると泣き叫ぶのに、自分が入れるとすごく落ち着いていた。あまり酷くはなかったが夜泣きの対処も自分の役目だった。それほど濃密に関わったからか、今では母親があやすより自分があやした方がすぐに落ち着いてくれた。それがすごく嬉しかった。『目に入れても痛くない』とは昔からよく言われることだが、それくらい思ってしまう気持ちも分かるような気がした。


それほどまでに彼は、平凡なサラリーマンでありつつ家庭も家族も大事にしている凡庸さが取り柄の男だった。だから今朝も、娘のおむつを替えてやってミルクをあげてゲップをさせてやって寝かしつけてやってから会社へ向かった。何の不安もない穏やかな寝顔を見せる、ほんのりと桜色に染まった娘のぷっくりとした頬に相貌を崩しつつ、家を出る際には妻の「行ってらっしゃい」のキスももらった。実にささやかな幸せだった。獅子倉修一郎はその幸せに満足していた。


彼の仕事は、原子力発電所の管理棟で、原子炉の状態をチェックすることだった。いつものように自分の持ち場について、いつものように計器をチェックした。今日も特に問題はなかった。ある時までは……


最初は、些細な異変だった。それぞれの計器の数値に矛盾が生じていたのだ。しかし異常を示すアラームは表示されなかった。だから割とよくある計器そのものの故障だと思われた。だが、念には念を入れる為に、電力消費に余裕のある今のうちなら大丈夫ということで、獅子倉修一郎が受け持っている二号機の運転を停止し、精密なチェックを行うことになったのだった。


いつも通りの手順でいつも通りの作業を行い、制御棒を操作して臨界状態にあった原子炉を臨界前の状態へと移行させた。


…筈だった。


「…おい、おかしいぞ」


誰かがそう口にした。その次の瞬間、原子炉の異常を示すアラームが一斉に点灯した。制御棒が動かないのだ。それどころか、冷却水の水位が異常な速さで低下していく。それはまるで、圧力容器の底が抜けたかのような異常な速さであった。


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