真夜中の講義

私は、自然科学部の向かいにある鏡の前に立っていた。ンブルニュミハによってデータに変換され書き込まれた例の鏡だ。そこに、鏡写しになった私の姿以外にも一人の女子生徒の姿が映っていた。石脇佑香いしわきゆうかのデータだった。


彼女は泣いていた。真っ直ぐに立ち尽くし、ただ静かに涙を流していた。


「泣いてもどうにもならん。今の自分を受け入れるんだな、石脇佑香」


私の声は聞こえている筈なのに、石脇佑香は返事をすることなく泣き続けている。だが、いくら泣いたところで本当に意味はない。今の彼女の涙は物理的に存在するものではなく単なるデータにすぎないのだから、どれほど泣いても枯れることはないのだ。しかも彼女自身が肉体を持たないデータにすぎない以上は泣くことにより生理的に気分が落ち着いたりすることもないのである。本人が泣くことをやめない限り、いつまででも泣き続けることになるだけだ。


「お前のことを覚えているのは私だけだ。お前がいくら泣いても誰にも届かん。なら、お前は新しい自分を生きろ。そうすれば見えてくることもある」


それでも彼女は泣いていた。私もそれ以上何も言わなかった。鏡にもたれて座り、ただ一緒に時間を過ごした。日が暮れて夜になり、石脇佑香の姿が見えなくなっても私はそこにいた。家に帰るとマスコミがいて鬱陶しいし、一応ホテルに隠れてるということになっているので帰るわけにもいかないのだ。だから私はそこにいた。


夜は彼女が活動する為のエネルギーである光が足りず姿を形作ることはできないが、彼女は確かにそこにいて、私の姿も見えているし、声も聞こえている筈だった。聞こうと思えばだが。


「石脇佑香。私にとってお前の存在など取るに足らないものに過ぎないが、私がお前を覚えていてやると言ったのは嘘じゃない」


深夜。誰もいない校舎の中で、私は一方的にしゃべりかけた。その姿は普通の人間から見れば、鏡の前に座り込んで独り言を並べる頭のおかしい女子生徒に見えるだろう。だが、そんなことは問題ではなかった。


「お前も気付いているだろうが、私は本当は人間ではない。お前達人間が神や悪魔と呼ぶ高次元の存在だ。お前達が自然科学部でやっているごっこ遊びではなく、まぎれもない本物だ。そしてお前もまた、私達の側の存在となった。お前はもう人間としては死んだ。だが、データとしては滅びることのない存在になったのだ。お前はこの鏡に書き込まれたが、同時に<書庫>にも記録され、少なくともこの宇宙が消滅するまではお前は書庫の中に存在し続ける。地球人で書庫に刻まれた人間は、多分まだ千人にも満たない筈だ。お前のその一人になったんだ。実は名誉なことなんだぞ」


私は別に石脇佑香を励まそうと思っているのではない。ここにいるしかないからその為の暇つぶしだ。だがその時、私の頭に届いてくる声があった。


「月城さん…あなたはひょっとして邪神ですか…?」


石脇佑香の声だった。やはり聞いていたのか。ならば話は早い。


「邪神だろうと何だろうと勝手に呼べばいい。そのどれもが間違いであり、正解でもある。お前達にとって理解の外にある存在を表すのであれば、だいたい正解と考えていい」


そうだ。人間が私達のことをどう呼ぼうと、それは人間の認識でしかない。人間にはどうせ私達を完全に理解することはできないのだ。呼び方などに意味はない。すると石脇佑香更が訊いてきた。


「本当の名前を、聞いてもいいですか…?」


本当の名? そんなものを知ってどうする。だが、もったいぶる意味もないな。


「聞いたところでどうにもならんが、人間の体で発音するなら、クォ=ヨ=ムイと呼べばいい」


そうだ。人間には私達の名前は正確には発音できない。構造が違いすぎるからな。そもそも私達に名前そのものが大して意味を持たんのだが。


「クォ=ヨ=ムイさん…ありがとう……」


不意に石脇佑香が礼を言ってくる。殊勝な心掛けだが、思い違いも甚だしい。


「勘違いするな。これはただの暇つぶしだ。お前の為じゃない」


そういうことだ。お前の為だなどと、思いあがってもらっては困る。にも拘らず石脇佑香は言う。


「そうなんですね。でも、ありがとう…」


そうじゃないと言うのに、しつこい奴だ。


「ふん。まあいい。だが、お前もそこにいるのは暇だろう。暇つぶしの方法を教えてやる」


これ以上その話に拘られてもつまらんから、私は話題を変えることにした。


「ぼんやりと模様みたいなものが見えてるはずだ。それは電波だ。波長を合わせればそれをエネルギーにして活動も出来るし、電波に乗せられた信号も解析できる。テレビ、無線LAN、電話、今は何でも電波に乗せてるからな。お前は機械じゃないからスクランブルも関係ない。有料放送だろうが何だろうが電波さえ捉まえられれば見放題だ」


私がそう言うと、石脇佑香はすぐに試してみたようだった。


「…これですか…? あ、なんか見えます。それに力がある。そうか、こういうこと?」


そう言った途端、石脇佑香の姿が浮かび上がる。早速、私の言ったことを理解したようだな。


「そうだ。手で触れた上で目の焦点を合わせるイメージだな。今はデジタル通信だから少しコツがいるだろう。アナログ通信の時はそのまま見えたんだが」


私の言葉を聞いた直後に、石脇佑香の声が高くなる。


「はい、見えました。これ、テレビですね。すごい! こっちは…音? ラジオですか。じゃあこっちは? え、と、インターネット?」


私も石脇佑香が見ているであろう光景に感覚を合わせると、石脇佑香は空中に漂う、いや厳密には鏡の表面を通過する電波の模様に次々と触れてその内容を確かめているのが分かった。


「ほう? お前、要領が良いな。もうコツを掴んだか」


人間にしては勘が良い。普通の人間なら本来の感覚に引きずられてピンとこない筈なんだが、さすがは中二病患者ということか。自分達の感覚とは違うものに対する強い憧れがそうさせるのかも知れんな。


「素敵! 寝る必要もないから深夜アニメも見放題ですね!」


と、石脇佑香ははしゃいだ。ああ、そうかそうか。さっきまでメソメソ泣いていた奴とは思えん変わりようだな。現金な奴だ。


「慣れるとお前自身が多少のデータを取り込めるようになる。テレビ放送を録画するようにな」


せっかくなので少し入れ知恵をしてやる。


「え? そうなんですか? 頑張らなくっちゃ!」


すっかりテンションが上がっている。別に構わんが。


「出来ました! でもこんなちょっとでいいんですね!」


『って、もう出来たのか!?』


要領が良すぎだな。意外と侮れん奴だ。しかし石脇佑香の言うちょっととは、データの大きさのことだろう。当然だ。お前の存在そのもののデータの大きさに比べれば、テレビ放送など細胞一つ分にもならん。一生分のテレビ放送を蓄えてもたかが知れている。まあせいぜい楽しむことだ。


この調子だとすぐに、いやもう既に今の生活を楽しみ始めているようだ。人間という存在の頸木くびきから解き放たれて、新たな生を謳歌するといい。まあ、どのような存在に生まれ変わろうが、それぞれでそれなりの制約はあるのだがな。私くらいの存在にならない限りは。


私は、宇宙そのものを行き来し、宇宙そのものを生み出し、また消し去ることもできる。殆どの存在は宇宙が消えればそれと共に消えるが、私は宇宙という制約すら超越した存在なのだ。ただそこまで行ってしまうと、今度は逆に不自由さが恋しくなったりもする。故に私は今、こういうことをしているのだ。ゲームで言うところの<縛りプレイ>ということで。


「なるほど、そうだったんですね」


不意にそう声を掛けられ、私の体がビクッと反応した。


「石脇佑香、貴様、私の思考が読めるようになったのか!?」


と、思わず問い詰める。


「いえ、心の声が私の方にダダ漏れでしたよ。切り替えを忘れたんじゃないですか?」


何だと!?


くそう、迂闊だった……!


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