死地

男との決着に拘りつつも、それが非常にくだらないことであることも、私は同時に承知している。


だが、世界を救うことと、ゴキブリとして男との決着をつけることがさほど変わらぬ価値しかない私にとっては、どちらもくだらないことであると同時に、拘る時にはとことん拘るべきものでもあるのだ。


故に、私はこの時点で自らが出せるすべてを出して、勝負に臨んだ。


明らかに最初の頃よりは動きが鈍っているものの、それでも普通のゴキブリに比べれば圧倒的な速さで男を翻弄する。


その様子に、小娘などは、


「やだ! やだ! いやぁあああぁっっ!!」


などと、半狂乱になって怯えている。こんな世界になってもゴキブリはとことん嫌われているということか。


まあそれはどうでもいい。


男はナイフやフォークを私に投げつけ、しかし躱されると、落ちたそれらを拾い上げては再び私目掛けて投げつけた。


そんな攻撃を躱しつつも、男の方へ目掛けと飛び掛かろうとすると、一瞬、動きを止めて羽を広げる動作に移らないといけないことで、私は男に飛び掛かることができずにいた。そのわずかな隙が命取りになるほどの相手なのである。


男がナイフやフォークを拾い上げる隙を何度か狙ったが、<飛ぶ>という行為は、ゴキブリにとっては必ずしも得意なそれではなく、走るよりも確実に速度が落ち、しかも空中では運動性も低下するので、あくまで非常時の緊急避難用の手段でしかないこともあり、飛び掛かろうとした私が男の振るったナイフに真っ二つにされるというビジョンが何度も見えてしまう。


だが私は、


「ははは! 楽しいな!!」


と、音声おとにはならないが声を上げて、愉悦していた。


楽しいのだ。本当に。


己のすべてをつぎ込んでギリギリの死地を駆け抜ける。


これだけでもこの<生>は意味があったな。


まったく。最初からこうしておけばよかったとも思うぞ。そうすればたとえ死んでも悔いはなかっただろうな。


いや、それだと卵を産まずに死んでいたか。さすがにそれはこのゴキブリに申し訳が立たんかもな。


などと、そんなことを考えながらも私は死力を振り絞っていた。


だが、時間が経てば経つほど、部屋に残留した殺虫剤が私の体に染み込み、蝕んでいくのも分かる。それでなくても油が切れたかのように全身がきしんでいる。


ダメージを視覚的に表示できれば、既に真っ赤だろう。残された時間はもう僅かだというのがびりびりと伝わってきた。


このままではいずれタイムオーバーで私は死ぬ。


瞬間、男の投げたナイフが私の体をかすめる。そして、右の中足がちぎれ飛ぶのが見えた。それと同時に走る速度が急激に落ちる。


「くかか! これでもういよいよ後がなくなったか…! ならば……!!」


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