魔が差す
『先生、これ、落としましたよ?』
そう声を掛けた私の前で、卓球部顧問は、飛び上がらんばかりに体を撥ねて驚いていた。握っていた筈のボールペンがないことにも気付き、狼狽する。
「え!? あ、ああ。ええ…!?」
って、狼狽え過ぎだろう。何をしとるんだ、まったく。
私はそんな卓球部顧問の手を取るようにしてボールペンを渡しつつ、囁くように言った。
「落ち着いてください、先生。彼女は幽霊じゃないですよ」
その言葉にハッとなるのを見届けた後、するりと脇を通り抜けて、冷やかしに来た連中のところへと進む。
すると、私が近付いてきてるのに気付き、連中は、
「やべっ!」
と声を上げて踵を返し、逃げていった。私を見てというよりは、異様な面相になっている卓球部顧問を見たことで、尋常じゃなく怒られると思ったようだ。
完全な誤解だが、まあ、結果としては良かったのか。
それを見送り、私は、呆然としている卓球部顧問のところへと戻り、再び声を掛けた。
「見ましたよね。幽霊があんな風に逃げますか? 冷静に考えたらすぐに分かる筈ですよ」
そう言いながら、ポンと軽く肩を叩くように触れる。
瞬間、卓球部顧問の血色がみるみる良くなっていくのが分かった。私が、こいつに憑いていたネルヒホゥニュルクァを食ってやったからだ。
「あ…ああ……そう、だな…」
まだ思考はまとまらないようだが、表情についてはただの間抜け面になっているし、もう大丈夫だろう。
まったく、世話の焼ける奴だ。
今回のことは完全に私の気まぐれである。もうしばらく放っておいてもよかったんだが、まあ、成り行きだ。
私がその場を去った後も、手にしたボールペンを見詰め、卓球部顧問は考えていた。
『お…俺は何をしようとしてたんだ……?
幽霊なんて、そんな訳ないじゃないか…なんでそんなこと思ったんだ……?』
人間には『魔が差す』ということが往々にしてあるようだが、今回のこともその一つだな。
魔が差すような状態になっているというのに手を打たないと、取り返しのつかんことになるということだ。
卓球部顧問の場合は、医者に行くかカウンセリングでも受ければよかったのだ。ネルヒホゥニュルクァは人間の恐怖を巧みに操るが、実は上手く気持ちを切り替えてやれば影響を和らげることも可能なのである。
そう。対処次第で『魔が差す』ことも回避は可能なのだ。故に、『魔が差した』といって必ず責任を逃れられる訳ではない。
厄介事は、早々に適切な手段を講じることで、小さいうちに芽を摘むことができる。
教師として生徒に偉そうに振る舞いたいのなら、そういう風に己自身で手本を見せるべきだな。
それができないのなら、偉そうにしないことだ。
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