Bewilderment

だがその前に、今日も刑事が話を聞きに来るんだったな。まあ、任せておいても大丈夫だと思うし、本当のことについては何を口走ったところで人間にとっては戯言にしか聞こえんだろうから心配するまでもないだろうが。


「ただいま」


部屋のドアを開けてそう言った月城こよみは、もうすっかりここでの生活が板についた感じだった。


「お帰り」


そう応える祖母の前を素通りして、机に鞄を置く。それからクローゼットを開けて、私服に着替えた。慣れたものだ。それからすぐに宿題を始める。私の記憶が使えるから、まるで苦にならないのが分かる。鼻歌交じりで宿題を片付けていく孫に祖母が言った。


「今日はすごくご機嫌ね。何かいいことがあったの?」


それは、これまでのこの祖母にはあまり見られなかった言動だった。孫のことを見てるようで見ていない、自分の思っている通りに動くことが当たり前で、それに外れるようなことをした時だけ小言を並べる感じだったのだ。自分の息子とその嫁が行方不明になって以降は普段通りの言動ではさすがになかったが、それでも孫娘のことを気にかけているかと言えば実は必ずしもそうじゃないのが透けて見えるような人間だった。それが、鼻歌交じりに宿題をする孫娘の様子に気付くとは、私にとっても意外だった。それはもちろん月城こよみ自身にもそうだったようで、明らかに驚いたように祖母を見て言った。


「あ、別にそういう訳じゃないけど、うん、まあ、ホテルにいるのに慣れてきたからかな」


学校で実際にあったことなど正直に言えるわけもなく、月城こよみはそう言って誤魔化した。クラスメイトの態度が今後どうなるかはまだ不確定要素が多いからな。しばらく様子を見ないと何とも言えんし。それに、今、機嫌が良いのは恐らく宿題を軽々こなせることが嬉しいだけなのだろう。それも何故そうなのかを説明することもできん以上、誤魔化すことしかできんよな。


祖母の言動も、環境の変化に伴う変質なのか、それとも一過性のものなのかは現状では判別がつかん。こちらも様子見だな。ただ、家族が孫娘だけになったという事実が影響していることは十分に考えられる。また、自身の加齢に伴う身心の変化も関係してる可能性はある。要するに不安なのだ。不安に駆られて擦り寄る相手を欲するというのは珍しいことではない。


ただ、そうやって擦り寄られていい気がする相手かと言えば、残念ながらそうではないだろう。それは本人のこれまでの行状が培ったものだから、急に不安になったからと言って擦り寄ろうとして拒まれても身から出た錆でしかない。育ててもらった恩とかいうものが価値を持ったことなど、私が見てきた限りではこれまでない。そういうものを振りかざす人間は大抵がロクな結末を迎えなかった。大切にしてもらえるかどうかは、本人の普段の振る舞いが決めるのだ。恩の押し売りは逆効果でしかない。ましてや普段から他人に当たり散らし罵詈雑言を並べる奴の末路など、語るまでも無かろう。他人を傷付けようとする者は、大切になどしてもらえないのだ。何物にも代え難い才能等といったよほどの価値がない限りな。


他人から大切にしてもらいたいのなら、他人を大切にすることだ。他者を大切にする気など微塵もない私が言うのもおかしな話だが、他者の評価など蝉の小便程の価値もない私だからこそ冷徹かつ客観的に見てるというのはある。


などと私が考えてる間にも、月城こよみは宿題を終えて自主勉強してるふりをしてホテルの無線LANを通じてネットをやっていた。石脇佑香いしわきゆうかがやっているのと同じだ。何を見ているのかと思えば、やっぱりこちらもアニメの感想まとめサイトを見ていた。ああ、そう言えばこいつもそうだったな。


そうこうしているうちに刑事達がやってきた。


「すいませんね。何度も」


若い広田が申し訳なさそうにそう言いながら何度も頭を下げる一方で、ベテランの今川いまかわは軽く会釈をするだけでその視線は既に月城こよみをしっかりと捉えていた。一挙手一投足、表情一つ見逃すまいという執念が見て取れた。だが、今日の今川は、月城こよみの顔を見た瞬間、僅かだが驚いたような顔をした。そしてすぐに訝しがるような表情に変わっていくのが分かった。まるで、瓜二つの別人を見ているかのような表情だ。


さすがだなと、正直言って私は少し感心していた。今川が見ている月城こよみは、肉体こそ同一人物だが中身はある意味では別人とも言える。どちらも私だが、その性質は全く異なる存在だ。故にその違いは表情にも表れているのだろう。昨日までの私はとにかく冷淡だった。言葉を詰まらせたり泣いたりはしても、実際にはあくまで演技だ。だが、今、目の前の二人の刑事を迷惑顔で見ている月城こよみのそれは、まぎれもなく素の表情なのである。本当にただの中学生の少女がそこにいるだけなのだ。今川はそれに気付いたのだろう。


厳密に言うと<ただの中学生の少女>とは言い難いが、少なくとも記憶と能力以外は本当に中学生の少女なのは確かだ。


全員でソファーに腰掛けると、対面した今川がさっそく問い掛けてきた。


「月城こよみさん、今日は学校で何かありましたか?」


ほう? いきなりそこから入るか。昨日までと様子が大きく違うとなるとその間に何かあったと考えるのは当然だろう。しかも中学生にとって学校生活は一日の中でもかなりの比重を占めるものだから、そこで何かがあったのだと推測するのは合理的かも知れん。


「別に…普通です」


そう言った月城こよみの目が一瞬泳ぐ。ああ、これは駄目だと私は思った。誤魔化そうとしてもこいつには無理だと確信した。だがまあ、別にこれまでと同じ主張を繰り返せばいいだけだ。『両親は旅行に行ってると思ってた。それ以上は何も知らない』と突っぱねれば、人間でしかないこいつらには何も掴めないんだからな。むしろ、昨日までと違って中学生の少女としての月城こよみに戻っている事実が、こいつを惑わせてくれるかも知れん。


そう考えた私の読みは見事に的中した。世間話を装った他愛ない質問を重ねる毎に、冷淡で感情というものが見えなかった今川の目に困惑が広がっていくのが分かった。言葉を交わせば交わすほど、昨日までとは別人としか思えない月城こよみの様子に戸惑っているのが見える。


もちろん、刑事としての経験の中では、突然豹変する人間を見てきたことはあるだろう。一日で言説を大きく変える人間も珍しくはあるまい。だが、今の月城こよみは、一見するとこれまでと同じようなことを言っているにも拘らず、その言葉を発しているのは別人とも言えるくらいに異なる人格なのだ。となれば当然、肉体に現れる反応も違う。目の動きや表情筋の動き、息継ぎのタイミング、発声の仕方、頭の動き、体の動き、手の仕草。それら全てが違ってしまうのだ。


人間の中には多重人格と呼ばれる状態の者がいるというが、実際に完全な別の人格を作り出しているものは極めて少ないだろう。今の私達のように、それぞれの人格が脳の別々の領域を用いて思考しているのでもない限り、あくまで一つの人格が自己暗示によって別人のふりをしているのに過ぎないのである。だからどんなに別人のように振る舞っていても、無意識の仕草などでは共通する部分が出てきてしまうのだ。


しかし私達の場合は、昨日までの私と今の月城こよみは、大部分は共用していたのだが、一部、脳の別々の部分を使って思考していたのである。大部分をクォ=ヨ=ムイである私が使っていたから月城こよみとしての人格はほぼ機能していなかったのだが、今はそれが完全に逆転しているのだろう。私が今もこうして思考していられるのは、それは私がクォ=ヨ=ムイであるからだ。人間とは違うのだ。


孫娘をきちんと見ていなかった祖母は気付かなくても、相手の嘘を見抜くことを生業としているベテラン刑事の今川には昨日までの私との違いが分かってしまうからこそ、困惑してしまうのであった。

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