炎熱の胎動

肥土透ひどとおるは、古塩貴生ふるしおきせいとの間合いを一気に詰め、左足を床に叩き付けそこで生じた力を自らの体幹に添わせて回転させ増幅し、右の拳に乗せ一切の手加減なく叩き付けた。その瞬間、古塩貴生の体が爆発するように弾け飛び、血煙と化した。それは、肥土透が何度も食らった綺勝平法源きしょうだいらほうげんの一撃に似ていた。打たれた方が光となって消えるほどの威力ではなかったが、基本的には同じものだった。そして、血煙と化した古塩貴生を月城こよみが巻き戻し、自分の閉じた空間へと引きずり込んだ。


その間、肥土透に対する巻き戻しが若干疎かになり、その体はみるみるズダボロと化していった。だが古塩貴生の巻き戻しを終え、再び肥土透の巻き戻しに集中すると、ズダボロの状態の肥土透が月城こよみの空間へと転がり込んできた。


「さすがにビビったわ~」


この空間に戻ればもう自分の再生能力だけで回復できる肥土透はそう声を漏らした。ビビったと言いながら実際には大して焦ってる風でもなかったが。


「バカ、無茶し過ぎだよ!」


そんな二人のやり取りの後ろで、しかしそれは始まっていた。最初にそれに気付いたのは、肥土透だった。


「お、おい、黄三縞きみじま、お前、何やってんだ?」


その声に月城こよみが自分の背後を振り返って見たのは、いつの間にか意識を取り戻した黄三縞亜蓮きみじまあれんが、意識を失ったままの古塩貴生ふるしおきせいの顔を拳で何度も殴っている姿だった。しかもそれは、躊躇も逡巡もない、機械的で容赦のない殴打だった。確実にそこにあるものを叩き潰そうとするそれだった。


「おい! 止めろよ黄三縞!」


肥土透が黄三縞亜蓮を羽交い絞めにしてやめさせようとする。だが、黄三縞亜蓮はなおも古塩貴生を殴ろうともがいた。その力は信じられないくらい強かった。肥土透ですら抑えるのがやっとの力だった。


「こいつ、どうしたんだ! すげえ力だぞ!?」


その肥土透の言葉に、月城こよみもようやく事態を把握した。


「肥土君、黄三縞さんも何かに憑かれてる!」


黄三縞亜蓮の肉体から、人間のものではない気配が発せられていたのだ。しかもそれは、黄三縞亜蓮の下腹部の辺りからだった。


「何だと!? くそっ! よりにもよってこんな時に!!」


そう言いたくなるのも無理はなかった。依代を失ったとはいえハスハ=ヌェリクレシャハの力は依然として凄まじい。それも片付いてないのにこれとは、忙しいことだ。


「肥土くん、ごめん! 黄三縞さんをそのまま押さえてて! 先にこっちを片付ける!」


黄三縞亜蓮を肥土に任せ、月城こよみはハスハ=ヌェリクレシャハの周囲の空間を閉じた。その瞬間、レスリング部の部室の中に吹き荒れていた風が収まっていく。だが、ハスハ=ヌェリクレシャハを閉じ込めた空間がすぐにも破られることを月城こよみも承知していた。だから二重三重に空間を閉じ、時間を稼ぐ。その間に別の空間を開き、そこから放り出そうとしたのだった。


だが、何重にも空間を閉じている為、そちらの方に力を取られて空間を開く方が上手くいかない。かといって閉じ込めた空間ごとでないと放り込むこともできない。


「私の力じゃダメなの…!? あともう少しなのに…!!」


月城こよみが、非力な自分を呪った。とその時、そんな月城こよみの背中に触れる者がいた。その感触に振り返ると、黄三縞亜蓮が月城こよみの背中に手を当てていたのだ。そこから、とてつもない力が流れ込んでくるのが分かった。それを自分の力に乗せて、月城こよみは空間を捻じ切り開ける。


それは、闇だった。何もない完全な闇だ。にも拘わらずそこには言葉では到底説明できない程のとてつもない力が満ちていた。それを目にした月城こよみ自身、ぞくっと背筋が凍るのを感じた。地獄とはまさにそこのことを言うのだと思った。ブラックホールだった。ブラックホールそのものに、空間を繋げたのだ。月城こよみはそこへ自分が閉じた空間ごとハスハ=ヌェリクレシャハを放り込んだ。


何もない完全な闇の中に奴が落ちていくのを見た月城こよみの脳裏に、一瞬、何かがよぎった気がした。だがそれははっきりとした形にならなかった為、月城こよみは単なる気のせいと捉えてすぐに忘れてしまったのだった。


「終わった、のか…?」


肥土透が呟くように訊いた。確かにハスハ=ヌェリクレシャハを追い払うことには成功した。しかし、問題はまだ終わっていない。黄三縞亜蓮はまた、古塩貴生を殴ろうともがいた。エニュラビルヌの力を得た自分ですら押さえ付けるので精一杯の怪力を、肥土透は改めて思い知らされた。


その様子を見ていた月城こよみの顔が青褪めていく。何かに気付いてしまったようだ。


「肥土君…黄三縞さんのお腹に、赤ちゃんがいる……」


肥土透は、一瞬、その言葉が理解できなかった。だから問い掛けた。


「え? 今、何て言った?」


肝心な時に鈍い肥土透に苛立ったように、月城こよみがキッと睨み付け、声を荒げた。


「赤ちゃんがいるって言ってんの! 黄三縞さんのお腹に!」


そこまで言われてさすがに意味が伝わって、肥土透も呆然としてしまった。


「な…なにいっ!?」


思わず声を上げた肥土透に、月城こよみがさらに言う。


「それだけじゃない。その赤ちゃんに憑いてるの、別の邪神が! たぶん、焼き尽くす禍神まがつかみ(カハ=レルゼルブゥア)だと思う」


月城こよみの記憶が呼び起こされるという事実こそが、その推測が正しいものだと物語っていた。だがそれは肥土透にとってもにわかには信じがたいことだった。


「何だよ、それ!? 嘘だろ!?」


そう叫ぶのも無理はなかった。しかしそれがどうしても気に障ってしまう。


「嘘や冗談でこんなこと言えるわけないでしょ!?」


つい感情的になってしまうが、別に肥土透にも悪気があってのことじゃないのは分かっていた。分かってはいるのだがあまりのことに感情の抑えが利かなかったのだ。黄三縞亜蓮が妊娠していて、しかもその胎児に邪神が憑いているなどという事態に。


「どうすりゃいいんだ…?」


呆然と呟く肥土透に、月城こよみも頭を振って、


「分かんない! 分かんないよ!!」


と、もはや泣きそうな声を出した。とは言え、泣き言を並べてても何も片付かん。しかもその時、肥土透に羽交い絞めされながらもがいていた黄三縞亜蓮の体から突然力が抜けて、意識を失ってしまったのだった。その機会を逃すまいと月城こよみはその間にレスリング部部員全員を巻き戻し、破壊された部室も巻き戻し、黄三縞亜蓮に殴られた古塩貴生の傷もついでに巻き戻した。


これでまあ一通りは解決したが、黄三縞亜蓮とその赤ん坊のと赤ん坊に憑いたと思われるカハ=レルゼルブゥアについてどうすればいいのか、途方に暮れるしかできなかった。それでも。


「狙って憑いたのかどうかは分からないけど、憑いた相手がまだすごく小さな胎児だったから、邪神って言っても力は全然大したことないみたい。それでも今の私よりはきっと強いけどね。それに起きてられる時間も限られてるっぽい。今、寝ちゃったんだと思う」


つまりさっきの黄三縞亜蓮は胎児に憑いたカハ=レルゼルブゥアに操られていたということだ。しかしカハ=レルゼルブゥアが眠りについたことで解放されたのである。


いや、違うな。操られていたのではないな。黄三縞亜蓮の衝動や願望を解放していただけかも知れん。だから自分に暴力を振るった古塩貴生に報復し、自分を助けようとしてくれる月城こよみには力を貸したのだろう。


取り敢えずここまでが、後に私が月城こよみと肥土透から聞いた顛末であった。


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