外伝・捌 白小夏の戦後

白小夏パクシャオシャは、暗殺者である。


第二次世界大戦の最中さなか、中国を中心に暗躍した彼女は、南方系のクォーターで香港出身。国籍はイギリスだが、実際にはロシアの指令を受けて暗殺を実行している工作員だった。


艶やかな黒髪を肩の辺りで切り揃えた、醜女しこめではないが、かと言って飛び切りの美人でもないという、まあそれこそどこにでもいる普通の中国人娘という風体の女だった。もっとも、それこそが工作員として求められるものではある。普通で目立たないことが重要なのだ。


彼女の主な任務は、他国の諜報員や諜報員の協力者の暗殺であり、彼女は殆どの任務を成功させてきた優秀な暗殺者だった。仕事の際には何でも武器にする。その場にあるもので目立たず確実に仕留める為だ。その上で、大抵は強盗や痴情のもつれに見せかける。


たとえ、その諜報員を使っている側はそうでないことを承知していたとしても、世間的にはその方が騒ぎにはならない。


しかし同時に、彼女は優れた暗殺者であったが、当然、危機に陥ることは何度もあった。一度などは、<木刀>を手にした日本人の少年らしき人物と接敵し、それこそ命からがら逃げたことさえあった。と言うのも、その少年は、何やら得体のしれない<力>を使うのだ。明らかに常識ではありえない超常の力だった。


『何だあれは…!? 勁とも違う、妖術の類でもない、仙術とでも言うのか?』


どうやらその少年は(いや、少年のように見えるだけで実際はそうではないかもしれないが)、どこかの組織の諜報員や暗殺者という訳ではないようだった。ただ単に偶然、彼女の<仕事>の現場に鉢合わせてしまっただけらしい。


仕事を目撃されてしまった為に消そうとしたものの、逆に自分が這う這うの体ほうほうのていで逃げ出す羽目になってしまった。なにしろ、拳銃の弾丸すら難なく躱して、ただの木刀にしか見えない得物で鋼鉄の柱さえ切り裂くのである。


『こんな化け物、相手にしてられるか…!!』


諜報員や暗殺者の類ではないとしても、少なくとも真っ当な生活を営んでいる一般人でもないと判断し、通報や告発などはされないと考えて逃げの一手に転じることにしたのだった。


その少年とはそれきりで、結局、彼女は戦争も乗り切った。終戦間際、指示を出していた直接の上司とも言うべき工作員がいずこかの勢力によって謀殺され、彼女は寄る辺を失うこととなった。同じロシアの他の工作員にすら正体を知られていなかったことで、繋がりが失われてしまったのである。


しかしそれは彼女にとって幸運だったと言えるだろう。終戦と共に事実上、工作員としては穏便に引退できたということなのだから。


「皮肉なものね…私みたいなのが生き残るなんて……」


そんなことをふと呟いてしまう。元よりいつ死んでも仕方ないと彼女は思っていたのだ。


表向きの出自は偽装されて平凡な家庭の生まれとなってはいたが、本来は売春婦が産み落とした私生児だった。母親には愛されず、五歳で盗みを覚えてそれ以降は殆ど自力で生きてきた。八歳で体を売ることを覚え、十二歳で後に所属することになる組織の人間に拾われ、人を殺す技術を叩き込まれた。どうせ誰からも必要とされなかった命なのだからどこで終えようとも構わなかった。多くの人間を殺し、命の終焉を見届けてきた。


『死にたくない』と懇願しながら息絶えた者。『母さん、母さん…』と母を呼びながら事切れた者。パニックを起こしケタケタと笑いながら死んでいった者もいる。


任務を言い渡される度に、次は自分の番だと思ってきた。なのに、あの<少年>に出くわした時には、ただもう必死で逃げた。命など惜しくないと思っていたのにも拘らず、天敵を前にした小動物のように本能的に逃げてしまった。


もしかすると、本当に得体のしれない<何か>に遭遇すると、それまでの覚悟とかそんなものはまったく無関係になってしまうものなのかもしれない。


しかし、そんなこともやがて忘却の彼方へと押し流されていく。


戦後は、以前から表の仕事として行っていたレストランの給仕に精を出し、そこの厨房で働いていた男と結婚し子供を産み、つまらない平凡な主婦として、彼女は忙しなくも新たな人生を歩みだしたのであった。




戦争を生き延び、結婚して子供を産み、平凡な主婦としての人生を歩みだしていた白小夏は、自分が不思議な感覚に捉われるのを感じていた。


夫は決して器用でもないし気の利いたプレゼントをしてくれるような洒落者でもなかったが、彼女が知るどんな男よりも誠実で生真面目だった。仕事一筋かと思えば彼女が体調を崩した時などは黙って子供の面倒も見てくれて、労いの言葉もない代わりに不平不満も口にしなかった。


彼が作る粥と炒飯は絶品で、子供達も喜んで食べた。


決して裕福でなかったものの酷く困窮することもなく、彼女は淡々とした毎日を送ることができた。自分のことはきちんと自分でする夫のおかげで子供の面倒を見ることに集中でき、昨日できなかったことが今日はできるようになっていく我が子の姿を堪能することもできた。


『人間って、こんな風に成長していくんだ……』


幼かった頃はただ生きることに必死で、自分が成長していくとか自分以外の誰かが成長していくとか意識したことなどなかった。それどころか、道端で隣に寝ていた自分より年上の子供が朝になったら冷たくなっていたなどということも何度かあった。その頃から、『次は自分の番だ…』と思っていた。


なのにその『自分の番』はいつまで経っても巡ってこない。それどころか自分の腹から三人も子供が出てきて次々と大きくなっていく。


「お母さん、お母さん」と声を発しながら自分に抱き着いてきて、とろけるような笑顔を見せる。それを見てると、自分もすごく柔らかい気持ちになってくる。これは一体なんなのか……?


彼女は、それが<幸せ>というものだと知らなかった。何人もの人間を殺してきた彼女ではあったが、それはそういう時代であり彼女に課せられた任務であったから、必ずしも本人に責任があるものではなかった。たまたま生き延びてしまっただけで、彼女の方が殺されていた可能性は常にあったのだ。だから彼女が幸せを掴むことを阻む根拠など誰も持っていなかったのである。とは言え、それまでの境遇により何が幸せなのかということを実感することができなかったのだった。


だが、今、自分の感じているものは決して不快ではないということも確かにあった。


やがて、結婚して二十年が経った時、不器用な夫が思いがけず指輪をプレゼントしてくれた。


「結婚の時には渡せなかったから…」


そう言いながら指輪をはめてくれたのを見て、涙が勝手に溢れてきた。そして彼女はようやく理解した。


『ああ…そうか、自分は今、幸せなんだ……』


道端の石ころのように誰からも顧みられず無価値なものと思われてきた彼女が、ようやく自分が生まれてきた意味を感じた瞬間であった。




結婚して二十年が経って初めて夫が指輪をプレゼントしてくれた翌年、息子の一人が日本に渡って二十歳の若さでレストランを任されることになった。その店に招待されて、息子が父親から受け継いだ炒飯を振舞ってもらった彼女は幸せを噛み締めて涙した。よもや自分がこんな時を迎えられるなど思ってもみなかった。自分が命を奪ってきた者達にももしかしたらこういう未来があったかもしれないのにそれを奪ってしまったことを悔やんだ。


命令されたことを実行してきただけだから自分にはどうしようもなかったことは分かってる。悔やんでも仕方のないことだというのも分かる。自分がやらなくても結局は他の誰かがそれを行っていただけだ。そういう時代だったのだ。


それでも、彼女はそれを肯定はできなかった。今、自分がこうして幸せに生きていられているが故に。


誰にもその過去を打ち明けることはなかったが、彼女は自分が殺めてきた者達のことを心の中で悼むようになっていた。


だが、そんな彼女にもついに<順番>が来てしまったということなのだろうか。息子を祝う為に訪れた日本を離れて帰国し、空港から家に帰る為にバス停に向かう途中にトイレに寄ろうと家族の下を離れた彼女の後を、一人の若い男がつけていた。


トイレで用を足し戻る為に出入り口に立ったその時、誰かがドスンとぶつかる。


彼女がハッと思った時にはもう遅かった。現役の暗殺者だった頃ならこんな油断はしなかった筈だが、それももう二十数年も昔の話。引退してからの時間の方が既に長くなったことにより、すっかり普通の主婦になってしまっていたのだろう。


『まさか…今頃……』


焼けるような痛みを胸に感じそれを手で押さえながら、彼女はその場に倒れ伏した。ものすごい勢いで自分の命が流れ出していくのが分かる。視線の先にはぬめりを持った真っ赤な液体が広がっていくのも見えた。何度も見た光景だった。ただしかつて見たそれは、自分以外の誰かのものであったが。


『随分と待たされたけど、やっぱり私の番も巡ってくるってことなんだね……』


これまでの記憶が頭の中を走り抜けていくのを見ながら、ぼんやりとそんなことも考えた。家族に別れを告げられないのは残念だったが、自分が手を掛けた者達もそうだったのだからこれも当然の報いだと、彼女は受け入れたのだった。




白小夏パクシャオシャ。強盗に心臓をナイフで刺され死亡。享年、四五歳。死因、出血性ショックによる多臓器不全。


時代の闇を生き抜いた一人の女は、こうして秘密のすべてを自らの命と共に真の闇へと葬り去ったのだった。


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