21 シャンタル宮の闇

 ピシャン……ピシャン……


 どこか遠くで微かに水が垂れる音が聞こえる。

 どこかで水が漏れているのかも知れない。


 そう思っていたからこそあまり気に留めていなかった水音。

 それが今では背筋を冷たくつたうようだ。


 ミーヤは一人ではなくてよかったと心から思っていた。

 一つ空けて隣の部屋にセルマがいてくれる。

 決して良い関係ではなく、キリエに薬物を盛り、自分をその犯人に仕立て上げようとしている人ではあるが、それでもこの空間に一人きりでいるよりずっと心丈夫こころじょうぶに思えた。


 特に話をするわけではない。

 お互いに何かを話す気にもならない。

 だがそれでも、もう一人誰かが同じ空間にいてくれる、そのことにとても安心できた。


 そうは思いつつも、じっとしていると、懲罰房について聞いた色々な噂を思い出す。


――してはならぬ恋をして懲罰房で命を絶った侍女がいた――


――無実の罪で懲罰房に入れられた侍女が相手を呪いながら自害した――


――懲罰房で命を落とした侍女の泣き声が夜な夜な聞こえてくる――


――懲罰房で黒い影を目にしたら迎えがきて闇の中に連れて行かれてしまう――


 どれもこれもおどろおどろしく、だがしかし、所詮しょせんは長い夜の、たまたますっぽりと空いてしまった時間の暇つぶしのとりとめのない話、としか受け止められない噂話であった。

 実際、そう言いながら、懲罰房を見たことのある者、行ったことのある者はほとんどいなかったし、いたとしてもその後も元気に宮での勤めを続けていた。


 あくまで噂、静かで清らかなシャンタル宮の中の生活だからこそ、せめて一点でもそんな闇のような刺激があれば面白い、その程度のことであった。


 だが今は、その噂の一つ一つが真実の重みを持って脳裏に浮かぶ。

 あれはもしかしたら本当の話ではなかったのか、と。


 八年前、ミーヤは不思議な体験をした。

 自身が身をもって経験しただけではなく、その命をかけて運命を乗り切った人たちを知っている。


 だが、その不思議な体験は、言わば神が与えた試練、その人の持つ運命の物語であった。

 しかし今回のこの水音にまつわる話はそうではない。


(まるで光と闇のように違う)


 八年前の出来事は光が見守っていてくれた、そう感じた。

 だが今のこれは、水音は……


 時刻はこれから夜に向かう。

 陽が射さず、朝も昼も夜もない地下にある懲罰房でも、生活のリズムと周囲の人の動きでそのことが分かる。そのことを考えると恐ろしくなってきた。


 そうして、ふとある人が心に浮かぶ。

 もしも一緒にいてくれたら、そうしたら自分はどんな怖いことでも乗り越えられるのに。 

 そう思った。


(今どこにいるのです)


 あの日、最後に見たのは困ったような顔。


(いえ、まるで叱られた子どものように泣きそうな顔だった)


 「らしくない」と言われ、自分でもそのことが分かっていて、それでどうしていいのか分からない、そんな迷子のような顔だった。


 その顔を思い出し、ミーヤはこんな中にいながら少しだけおかしくなって笑った。


(本当に子どものような人、困った人)


 そうして少しだけ温かくなった胸の前で手を組み合わせ、無事でいるように祈る。

 自分もがんばって乗り切ります、だから、だからまた……


 ピシャン……ピシャン……


 どこか遠くで微かに水が垂れる音が聞こえる。

 どこかで水が漏れているのかも知れない。


 ずっといらついていたあの音、それに今はゾッとさせられる。


 セルマは少しでも廊下への扉に近い部屋でよかったと心から思っていた。

 ミーヤのいる奥の部屋より少しでも衛士たちに近い。


 セルマはミーヤよりも宮の生活がはるかに長い。ミーヤが生まれる前からここで生きている。そしてその分、懲罰房についての噂もたくさん耳にしている。

 特に、奥宮に出入りするようになると、「前の宮の者」のように興味本位、いつかは出ていく「行儀見習いの侍女」たちによる時間つぶしの怖い話としてではなく、宮の歴史の中にあった事実として学んでいる話もある。

 例えば「してはならぬ恋をして懲罰房で命を絶った侍女」「宮での権力闘争に破れて冤罪の果てに自害をした侍女」の話、これは奥宮に入った後で「シャンタル宮の闇」の話として聞かされる。


 そもそも宮の始まりの時、侍女はみな、宮に入る時に「誓いを立てて」一生を神に捧げると誓っていた。 

 だが、ほとんどの侍女はやっと物心がついたばかりの幼い時に宮に入ってくる。その後で、例えば衛士や神官、その他宮に出入りする人に心を与えてしまう者が出てくることもあった。その結果、そのような悲劇も起きる。

 それで宮では猶予を与え、それなりに年月を経て、経験を積んで、そのようなことがもうないだろう年頃になってからもう一度誓いを立てる形に変わっていった。誓いを立てる前のことなら、その相手と一緒になるという形でひっそりと宮から出すことができるからだ。


 このことでかなり悲劇は減っていったが、それでも全くないという訳ではない。人の心というのは複雑なものだ。

 誓いを立てて後のことなので、かえって話は深刻になった。

 そんな悲しい出来事、その話を聞かされることで、新しく誓いを立てた侍女はあらためて気持ちを引き締めるのだ。

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