第六章 第四節

 1 あの者

「お久しぶりでございます……」


 神官長は目の前の美しい主に丁寧に正式の礼をすると、満面に笑みを浮かべて立ち上がった。


「久しぶりですね」

 

 この世の者とは思えぬほど美しい主も、その完璧な美貌に優しい笑みを乗せて忠実な下僕に視線を送った。


「この度は、お手を煩わせましたことをお詫び申し上げます」


 神官長はそう言うと、もう一度、前よりももっと丁寧に正式の礼をし、前よりも長く頭を下げてから上げた。その顔からは笑みが消えていた。 


 なんとも微妙な表情だった。

 悔しいとも、悲しいとも、そして喜びも含んでいるような。

 そんな、一言では到底表せない表情をその貧相な顔の上に乗せている。


「いいえ、構いませんよ。遅かれ早かれ、こうなることは決まっていたのですから」


 天上の美を持つ主が天上に咲く花のように笑顔をこぼした。


「さようではございますが、ですがやはり、その少しばかり……」

「良心が痛む、そうですね」

「はい……」


 神官長が恐れ入るように頭を下げると、主は天からの鳥のさえずりのような声を立てて笑った。


「そうですね。『あの者』がもう少し柔軟であったなら、心から今度のことを喜んでくれたことでしょうに。わたくしも少しばかりそれは残念だとは思っております。ですが、もうなってしまったこと。詮無いことを考えるのはよしましょう」

「御意」


 神官長の前で嫣然と微笑む主、天上の美姫、それは言うまでもなくマユリアだ。


 これまでマユリアは神官長に対しては比較的冷たい態度を取っていた。それは断っても断ってもしつこく国王との婚姻を勧めてきて、何度言ってもやめなかったからだ。

 

 マユリアは女神シャンタルの侍女であり、自身も慈悲から生まれた女神である。どのような人に対しても慈悲の心を忘れず、等しく温かく接している。

 だが、いかに女神だとて、その度量を超えてくる者、他者に対しての尊敬の念を持たぬもの、過ちを正そうとせぬ者に対しても、どこまでも温かく接することなどできはしない。時には厳しく、冷たく接することもある。そうすることで過ちを正し、己を見つめさせること、それもやはり慈悲であり、愛情であるからだ。


「なかなかおまえをここに呼べずにおりましたが、そろそろ話も聞いておきたい。それでキリエに呼ぶようにと申しました」

「はい、ありがとうございます」

「キリエにはどうしても必要な用があるからと申しましたが、少し警戒をしているようですよ」

「はい、キリエ殿は私に心を開いてはくださいませんので」

「それはそうでしょうね」


 マユリアがクスクスと楽しそうに笑った。


 マユリアはいつもと変わるところがない。八年前、トーヤがいつも変わらないと言った、あの時のままのマユリアだった。


 美しさも、朗らかさも、声も仕草も、何一つ変わることがないマユリア。だが、神官長に向けるその視線、従順な下僕を包み込むように見る視線が何かが違うと教えている。


「キリエはいつもいつもわたくしのこと、シャンタルのことを一番に考えていてくれます。キリエから見れば、おまえはわたくしにとって良くはない者、そう判断するのですから、仕方のないことでしょう」

「はい、おっしゃる通り」

「ですが、キリエももう年です。交代を終えてしばらくしたら、北の離宮へ行くように申しましょう」

「はい」


 マユリアと神官長の間で侍女頭の交代の話ができあがっていく。


「次の侍女頭なのですが、キリエには心づもりがあるようなのです」

「はい。一度シャンタルに言上申し上げに行かれてましたな」

「ええ。ですが、その者の名を聞く前に、わたくしが不調を起こし、それでそのままになっています」

「はい」

「侍女頭の交代については、その当人に一任されています。ですから、たとえシャンタルと言えども誰をと命ずることはできません。もちろんわたくしにも」

「はい」


 いつの頃からかは分からないが、侍女頭の交代については、そのような慣習ができていた。

 おそらく、シャンタル宮を変わりなく運営していくために、時の侍女頭が自分が一番信頼ができる者を後継者に選ぶ、そのような形が自然に出来上がっていったのだろう。

 交代の時期はいつとは決まってはいない。シャンタルの交代の時に合わせることもあれば、全く関係のない時に行われることもある。


「ですから、次の交代の時にはそのままキリエに努めてもらいます。わたくしが王家の一員となり、この国の行く先を決めることができるようになるその日まで、まだまだキリエの力は必要なのです」

「はい」

「そして、次の侍女頭には、予定通りセルマを」

「はい」

「おまえもその方が色々とやりやすいことでしょうから」

「はい、ありがとうございます」


 なんということか。マユリアは神官長とキリエを退け、セルマをそばに置く話を当然のように進めている。


「セルマはどうしても『あの者』の心を掴むことはできませんでした。ですが、わたくしはそばに置いて使いたいと思っています。これから先のこの国に、真の女神の国、女王の国のためにセルマほど適任はいないでしょう。よくぞ見つけてくれました」


 マユリアが神官長に褒める言葉をかけると、神官長が恐縮し、また深く頭を下げた。

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