8 本当の主

 その夜、侍女頭の執務室に戻ってきたキリエは、思いもかけない人の姿にさすがに驚いた。


「よう」


 トーヤがキリエの執務机の前の椅子に座っている。


 キリエは無言で部屋に鍵をかけ、トーヤの前に立つとじっと見下ろした。


「何をしているのです」

「うん、いや、ちょっとな」

「今すぐ衛士を呼んで不審者として捕まえることもできるのですよ」

「でもあんたはやらねえだろ?」


 トーヤはそう言うと立ち上がり、椅子をキリエに譲った。


「まあ、ちょっと座ってくれ。人が話をしてる時は立ってるものだってのが侍女の礼儀らしいが、どう考えてもあんたに座ってもらって俺が立ってるのが筋だと思う」


 トーヤはどうぞというように右手で椅子を指し示す。


 キリエはもう一度じろりとトーヤを睨みつけるようにしたが、話を進めるのが先だと思ったのだろう、素直に自分の椅子に腰を掛けた。


「それで、一体何の用なのです」


 キリエが本気で怒っているのをトーヤはその表情から分かっていた。それはそうだろう、キリエがなんのためにトーヤたちをいないものとして扱っているのか、それを分かった上でこんなことをしているのだから。


「いや、すまねえな。こんなことしてあんたが怒るのは分かってんだが、どうしても言っておかないといけねえことができた。マユリア、変わっただろう。あんた、何かが違う、そう思ってるよな。あんたが思ってることは当たってる、その通りだ。あんたは間違ってねえ」


 トーヤはキリエの答えを聞かずにそこまでを一気にぶつけた。


「言いたいことはそれだけだ。それだけ忘れずにいてくれりゃそんでいい。じゃあ」


 トーヤは言い終わるとそのまま後ろを振り返る。


「お待ちなさい」


 トーヤがキリエの言葉にピタリと足を止めた。


「たとえマユリアがどうお変わりになろうともマユリアはマユリア、この宮のあるじです。私が生涯をかけてお仕えしている神なのです」

「んなこたぁ分かってるよ」


 トーヤが後ろ姿で笑ってみせた。


「あんたがそう言うだろう、そうするだろうってことは言われなくてもよおく分かってる。けどな、そのことで多少悩んでるだろうし苦しんでるだろう、そう思った。だから間違ってねえぞとだけ伝えに来たんだ。その方が気持ちよく進めるだろうが、お互いに」


 ついさっき、ベルに言い聞かせたことをまるで自分に言い聞かせるようにトーヤはそう言う。


「だからあんたはいいんだ。何があろうとあんたは自分の考えを変えねえし、それでこそあんただと思ってる。俺はあんたのそういうところが好きだからな。だけど、その上で一つだけ聞かせてほしいことがある」

「なんでしょう」

「こういうことを聞くのはもしかしたら反則かも知れねえ。それを分かってて聞くんだから、返事はなくても構わねえ。ルギはこのことに気がついてると思うか? マユリアが、自分が生涯を命をかけたあるじが」


 そこまで言ってトーヤは迷うように一度言葉を切った。


「変わってる、出会った時のままの主じゃねえってことを」

 

 やはり今のマユリアはマユリアではない。そのことを突きつけられてキリエは逆にホッとした。


 トーヤが言うように、キリエはマユリアの様子に違和感を抱いていた。何がどう違うかは分からないが主が元の主ではない、そう確信は持っていた。

 ただ、その変わったことについては何がどうなっているのかまでは分からない。そこに確かに苦痛を感じていた。もしも、マユリアがマユリアではない、例えば闇の神などというお方がマユリアの振りをなさっているとしたら、その時はどうすればいいのだろう。このまま仕え続けるのは本当の主に対する裏切りであり、知らずにとはいえ誓いを破ることになる。そのことに対する迷いはあった。だから、トーヤに間違えていないと言ってもらったことで気持ちは楽になった。


 もしも、主が主であるままで間違えた道を歩まれるのなら、その時は共に滅びても構わない。主を裏切っているのでさえなければ。トーヤとアランが思っていたようにキリエはそう考えていた。


「変わられたとしても主は主。私はいつまでもおそばに仕える、それが自分の使命だと思っています。ですがルギは……」


 キリエがそこで言葉を途切れさせた。


「ルギが主と定めたのは当時のシャンタル、当代マユリアだよな。だったら今のマユリアがその時の主とは違うってことを教えてやらねえのは、あんた、どう見る」


 トーヤの言う通りだとキリエは思った。自分は自分の心に定めた主に仕えている。もしもルギがその事実を知らないとしたら、黙っていることは当代マユリアを裏切っていることになる気がした。


「あなたは何を知っているのです。そしてどうしろと言うのですか」

「知ってることはあるが、あんたには話せねえ」

「何も知らないのでは何も話すことはできないと思いますが」

「そこはしゃあねえよ」


 トーヤはまた背中でそう言って笑った。


「そうだな、ルギがそのことに気がついているかどうかを見て、もしも気がついてないのなら、なんとか気がつく方向に視線を向けてやってくれると助かるかな。肝心のところは俺がその時になったら言うからさ」


 トーヤはそれだけ言い終わると、キリエの返事は聞かず、音もなく部屋から出ていった。

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