9 キリエの変化

 キリエはマユリアの私室へと足を運んだ。


「お具合はいかがでしょうか」

「ああ、キリエ」


 マユリアはベッドの上に上体を起こそうとするので、キリエがそれを留める。


「そのままでいらっしゃってください。無理はなさいませんように」

「いえ、もうかなりいいのです。少し起きた方が調子もいいように思います」

「さようでいらっしゃいますか」


 キリエは主に手を貸して、上体を少しでも楽にできるようにと、ソファーからもう一つクッションを持ってきてあてがった。


 マユリアはいつもは梳き流すかシニヨンに結っている髪を、三つ編みにして左の肩から垂らしていた。その豊かな自分の髪すら重そうに見える。


「ありがとう」

「いえ」

 

 マユリアはふうっと楽そうに息を吐き、


「忙しい時に迷惑をかけますね」


 と、侍女頭に謝罪の言葉を口にする。


「もったいないことを」


 キリエは丁寧に頭を下げてから上げると、


「少し、お話しさせていただいてもよろしいでしょうか」


 と、時間を取らせることに許可を求めた。


「ええ、構いませんよ。ではここに椅子をお持ちなさい」


 病の床にあるあるじが、老いた侍女頭に心をくばる。


「はい、失礼をいたします」


 キリエはテーブルのところにある椅子を一つ持ち、マユリアのベッドの横に置いて、そこに腰を降ろした。


「一体何の話でしょう、何か問題でも起きましたか?」

「いえ、伺いたいのはマユリアのお具合のことでございます」


 キリエは痩せた手を主の手に添え、心配そうな表情で続ける。


「一体、いつからどうお具合が悪かったのでございましょうか。今回のことが初めてではございませんでしょう」


 マユリアは少し考えていたが、この侍女頭にごまかしは通じないと、


「ええ」


 と、言葉少なに認める。


「一体いつから、どのようにおなりでした」

「以前から時々あったのですが、今回のようなことは初めてです」

「以前から」


 キリエはやはり、と小さく嘆息たんそくする。


「いつからでございましょう」

「おそらく、八年前から」


 そんな前から。


「どうして何もおっしゃってくださらなかったのです……」

「いえ、ずっと大したことはなかったのです」

「どのようなご症状がおありだったのですか」

「少しめまいがする、ぐらいのことでした」

「どうか、これまでにおありだったことを、全部お話しください」


 キリエにそう言われ、マユリアは思い出すようにしてぽつりぽつりと話す。


「覚えているのは、そうですね、一番最初は先代がこの宮を去られて間もなくだったと思います。わたくしが応接で一人、考え事をしていたら、ふっと気が遠くなりました。そして、少しの間意識を失っていたように思います」

「そんなことが……」


 キリエは息を呑んだ。


「意識を失うなど、大変なことではございませんか、どうしておっしゃってくださらなかったのです」

「本当に短い間のこと、おそらく一瞬に近い時間のことだったからです。多分、気が抜けて、それでふっとそんなことになったのだろう、その時はそう思っておりました」

「それが初めてということは、それからもあったのですね」

「ええ、何回か。でも、どれもほんとうに短い間で、すぐに治りました。ですから、言うほどのことはない、そう思っていたのです」

「言っていただきたかったです」


 キリエは握った主の手に力をこめる。


「ごめんなさい。ですが、十年を超えての任期、そのぐらいのことがあったとしてもおかしくはない、そう思っていたのです」


 なんとおいたわしいと、キリエは胸が苦しくなる。

 この美しい主は、ご自分が全てのけがれをその身に受ける覚悟で2回目の任期をお受けになられたのだ。それだけの覚悟をなさって先代をお見送りになり、お帰りを待たれていたのだ。


 キリエは思わず先日のミーヤの身に起こったこと、先代がミーヤのことを守ってくれたことを話したくなる。だが、まだ言ってはいけないのだと、鉄の自制心を持って己を留めた。


「マユリアのお気持ちはよく分かりました。ですが、やはり私にだけは言っていただきたかった」

「ごめんなさい」

「いえ、お気持ちはよく分かりましたので」


 キリエは主の手を握ったまま、ゆっくりと首を左右に振った。

 その様子は、主を見守る下僕しもべのそれではなく、大切な孫を見守る祖母の目、そのものであった。


 マユリアはその目を見ながら、キリエという人間は、このような目を、表情をする人間であっただろうかと考える。

 マユリアが物心ついた頃にはすでに侍女頭だったキリエ。その厳しい生き様から、皆はキリエを「鋼鉄の侍女頭」などと呼ぶが、マユリアの目には、いつも優しく、暖かく、懐深い人物と映っていた。映るだけではなく、実際にいつもそうして守ってくれていた。


 だが、その時とはまた違う目をしているとマユリアは思った。


 これまでのキリエは人として、侍女として、そして侍女頭として自分たち主を、そして侍女たちを大切にして守る存在であった。だが今はもう一歩踏み込み、その守る対象を愛しい、かわいい、そう思っているようだった。


「誰がおまえを変えたのでしょうね」

「え?」


 キリエは主の言葉の意味を測りかね、戸惑った顔になった。

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