5 忠臣
キリエはルギのいつもとは違う様子には気がつかなかった。つきようもなかった。それほどルギはいつもの様子であったのだ。
そのままキリエはマユリアの元へ行き、警護隊隊長との話の報告をした。
「ご苦労さまでした」
キリエは黙って静かに頭を下げる。
この世のものとも思えぬほど美しい
「無理をさせたのでしょうね。いつもおまえには甘えてばかりで」
「いえ、とんでもございません」
マユリアの言う「無理」とは、キリエに嘘をつかせたことである。
シャンタル宮に仕える侍女にとって嘘は穢れであり禁忌であるからだ。
侍女といえども人間、結果として言ったことが嘘になることもあり、自分のことを考えるあまり、つい嘘をついてしまうこともある。
神はそのことを責めたりはしない。シャンタルは慈悲の女神、人のその愚かさを受け止め、優しく許してくださる。当人がそのことに気づき、過ちを認め、そして心から反省すればそれでよい。そう言ってくださると侍女たちは教えられる。
そうして嘘をついてしまったり、過ちを犯してしまった侍女たちは、そのことの大きさに耐えかね、ある場所に足を向けることがある。
ある者は神殿で、トーヤが不思議な会話をしたあの「穢れのない石」の前に
さほどに嘘は侍女にとっては禁忌なのである。
だが、ただ一つだけ、その禁忌よりも圧倒的に大きな存在がある。
――神の
『交代までに何かの形をつけておかなくてはいけません』
マユリアがキリエにそう言った。
交代までに今の出来事を落ち着かせるように、そういう意味だ。
そのためならばキリエは何でもする。嘘をつくことも、もしかして必要ならば自分を含む誰かの命を失わせることすら。
セルマがキリエの食器に何かを塗り、そのためにキリエは体調を崩した。そしてさらにその状態を継続させるため、密かに毒を出す花を部屋へ置いた。そのことを見抜いた「エリス様ご一行」が毒の花を無毒の花と交換し、健康を取り戻させ、セルマの仕業だと暴き、宮の状態を元通りにしようとした。
それを全部「なかったこと」にするには、どうしても嘘をつくことが必要であったのだ。
「申し訳ありません、あの香炉の問題だけは残ってしまいました」
「それは仕方のないことです」
あれだけ確たる物証が残っては、それまでなかったことにするわけにはいかない。
「それに、セルマをそのまま取次役に戻して何もなかったことにもできませんしね」
「はい」
この後はセルマの問題をどうにか落ち着かせ、無事に先代を割り込ませて無事に交代を済ませる、それしかない。
「思えば十八年前、先代がお生まれの時から今まで、ずっと常にはないであろう苦労をおまえにはかけ続けてきました。本当なら、今頃はもう少しゆっくりさせてあげられていたでしょうに」
「いえ、もったいない」
「ですが、もう少しの辛抱です。あと少しだけ、わがままを聞いてください。よろしくお願いしますよ」
「はい、分かっております」
老いた忠臣は女神にあらためて正式の礼をすると、静かに自室へと下がっていった。
ルギはキリエの執務室から下がると、自分の執務室に入り、執務机の椅子にどさりと体を落とすようにして座った。
なぜ話さなかったのか。
なぜだ。
ルギは神官長の言葉に惑わされるようなつもりはない。
「まさに戯言」
ぽつりとそうつぶやく。
だが、その裏で、その夢を美しいと思っていることは認めざるを得ない。
美しい女神が君臨する本物の女神の国。
これ以上美しい物があるだろうか。
神官長がそんな夢を見たこと、そのことだけは責められないと思った。
それほどにその夢は美しい。
だが、それを現実としようとすること、それを認めることはできない。
「何よりもご本人がそのようなことをお望みにはなるはずがない」
マユリアにも夢がある、人に戻った後にどうしたいかの望みがある。そのことを、あの日、あの小さな少女に教えられた。それまで自分が黙々と従うだけであった
それまでの自分は何も考えず、ただひたすら女神に仕え、従うことが正しい忠義の道だとばかり思っていた。
「何が忠臣だ」
思わずその言葉が口をついて出る。
今まで自分を表する言葉として一番使われてきたのがその言葉だ。
まるで影のように女神に付き従い、女神のためにだけ生きている。そんなルギを皆がそう呼んでいた。
『だから、一度聞いてやったらいいと思うぜ。きっとマユリア、喜ぶと思うんだ』
あの時、あの少女に言われたその言葉で頭を殴られたように感じた。
「そうだ、俺はもう迷わない」
あの日から自分は考えることを始めた。
命じられてどう動くのかではなく、本当に主のためになるためにはどう動けばいいのかを。
「それがどれほど甘美な夢だったとしても、あの方のお望みにではないことには、ご命令ではないことには俺は決して従わない」
主が人に戻るまでに残された時間はもうわずかだ。
その時に主が本当に望む場所に行けるために、そのためだけに自分は生きると、ルギはあらためてそう誓っていた。
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