24 一枚の羽根

(取り逃がした、行ってしまった……このまま海を渡ってしまう……)


 しばらくの間、マユリアは湖の底で動けずにいた。


(たった、たったあれだけの血、ほんの一滴の血でこのように……力が入らない)


 マユリアは激しく混乱する。


(どうすればいい、どうすれば取り戻せる)


 マユリアは俯瞰から見下ろしたことを思い出す。


(きっと、何かがあるはず……)


 人の世の時の流れは神の世界の流れとは違う。高みから見下ろせば、千年の時だとてほんの一瞬のようなものだ。


(そう、あの者を)


 マユリアはある人間を使うことを思いついた。この後、あの者はやがて今回の出来事の重さに潰されて心を病んでしまう。


(遅かれ早かれ得るだろうその苦悩から、その病から救ってやればよいだけのこと)


 そしてほんの少し手を伸ばす。


 ひらり


 神官長が「黒のシャンタル」に葬送の祈りの言葉を述べようと開いた経典から「ある物」が滑り落ちた。


 それは一枚の鳥の羽根。シャンタリオにはいない、おそらく中の国あたりにいるキラキラとした羽根を持つ美しい鳥の羽根であった。神官長がまだ若かった頃、あることでお世話をした貴族から「礼に」ともらった物だ。


 神官は侍女と同じく自分の所有物というものを持たない。身につける物、使う物、どれもみな「天からお借りしている物」でしかない。それでも時折、何かでちょっとした物をいただくことがあり、それがあまりに高額、貴重なものでない場合には、個人の所有物となる慣習となっている。

 若き神官長は当時の神官長にどうしたものかと正直に申し出た。シャンタリオにはおそらく数枚しかないと思われるその羽根がどういう扱いになるかは難しいところではある。だが、言ってみればただの鳥の羽根、特に宝石が付いているわけでもなければ、何かの芸術品として仕上げられた物でもない。


「おまえの働きに下さったのだから、おまえが持っていればよろしい」


 と判断され、それ以来神官長の宝物となった。


 トーヤがミーヤを客殿に滞在しているエリス様ご一行の部屋に呼ぶために、リル島で買った香木の飾りボタンを侍女見習いたちに渡した時も、キリエに伺いを立てて許可をもらって受け取ることを認めてもらったが、この羽根もそうして正しい手順を踏んで神官長の物となったのだ。

 今はフェイとなったあの青い小鳥も同じくそうしてフェイの宝物になった。神官長にとってはその輝く羽根は、青い小鳥と同じぐらい大切な物であった。


(その宝物がなくなっていると気がつけば、きっとあの者は聖なる湖に戻ってくる)


 マユリアは神官長の動きを追った。


 二千年の歴史の中で最初で最後であろう「シャンタルの葬送」という重い荷物をやっと降ろした神官長は、ほっと息をついて私室の椅子に腰を降ろすと、いつものように羽根を見て気持ちを休めようと思った。


「ない」


 神官長の顔色はみるみる真っ青になった。さっき、冷え込む湖でいた時以上に体が冷えるのを感じる。


「一体どこで……」


 考えていて思い出した。


「あそこか……」


 最後に視界に入った時のことを思い出す。


 祈りの言葉を述べる時、開く場所が分かるようにと、しおりのようにそのページに挟んでおいた。その時に羽根を取って経典の最後のページに挟み直し、そして祈りの言葉を述べたのだ。


「あの時に挟み損ねたのか。寒くて指が凍えていたし、ないことではない」


 神官長は経典を片手に今来た道を急ぎ戻る。さっきは何人もの人間と一緒だったが、今は一人で戻らねばならない。


(気味が悪いが仕方がない)


 聖なる地、聖なる湖にそんなことを思うのは申し訳なく思う。だが、誰もいない森の中に来るのが怖いと思うのは仕方のないことだ、自然な感情だと自分で自分に言い聞かせながら、恐る恐る来た道を辿った。


 まっすぐに道を進む。さきほど黒い棺が通った道を。そして湖が見えてもう数歩歩いた時、


(あった!)


 道の上にキラキラと輝く羽根が落ちていた。


 神官長は小走りにそこまで走ると羽根を拾い、軽く汚れをはらった。


(よかった傷などついていない、元の美しい姿のままだ)


 安心すると元の通り経典に挟み込んだ。一番開くことが多い朝の祈りページを開き、いつものようにそこに。よく見るとうっすらと羽根の形に凹んでいる。長年その場所にあったため、その形をとどめており、多少のことでは落ちないようになっているのだろう。


(いつもとは違うページに挟んでいたために落としたのだな。これからも同じことがあってはいけない、気をつけることにしよう)


 そう考えながら来た道を戻ろうとした時、何かが聞こえた。


(人の、声?)


 ゾッと寒気がした。誰もいないはずの森の中で人の声など聞こえるはずがない。だが確かに聞こえる。聞くまいと思えば思うほど神経が研ぎ澄まされ、そのうち何を言っているかまでがはっきり聞こえるようになってきた。


「これを見ろ」


 この声、聞いたことがある。


(ルギ隊長?)


 あの者ならばここにいても不思議ではないかも知れない。いつもマユリアの命で一人で動いているのだから。


(何をしているのだろう)


 好奇心から神官長は身を隠しながら振り返り、そしてルギがトーヤと一緒に黒い棺を沈める姿を見てしまった。

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