8 杞憂
キリエが黙っているとルギも黙ってキリエを見ていたが、やがてこう付け加えた。
「願わくば、慈悲が鞘となり剣を抜く日が来ぬことを」
「え?」
「マユリアは最後にそうおっしゃいました」
「そうなのですか」
キリエはその言葉を聞いて少し体の力が抜けるのを感じた。
よかった。マユリアはルギにあの剣を振るわせるために持たせたのではなかった。そう思ったからだ。万が一のため、そのためだったのだ。
八年前、トーヤが先代にあの黒い小刀を守り刀として持たせたように、マユリアもルギに万が一のためにあの剣を御下賜なさったのだ。そう考えるとおかしなことではないと思えた。
少し前にアランとあの剣の話をした。アランは傭兵としてマユリアがあの剣を授けたことがひっかかると言ってきた。おそらくそれはトーヤも同じ意見であったのだろう。
『なぜって、マユリア、剣を触れなかったりしませんか?』
アランの言葉が蘇ってきた。
「そういえば、マユリアはその剣に触れられていらっしゃいましたか」
「いえ」
ルギが短く否定した。
「そうですか」
このことにもキリエは安心をした。
『なんかおかしい、そう思ってます』
またアランの言葉を思い出す。そしてそれも心配をすることではなかった、そう思う。
おそらくキリエは確かめているのだ。アランが口にした言葉、おそらくトーヤもそう思っているだろう不安をルギによって否定されることで、自分の不安は無用であった、そう思いたくて。
マユリアとルギの間に正確にどんなやり取りがあったのかは分からない。だが何があってもルギはマユリアの剣たらんとするだろう。それは分かった。
眼の前の実直な衛士は、必要ならばその剣で何かを、誰かを躊躇なく斬るだろう。そうも思った。
やはりその時のためにお授けになったのだろうか。
では、その万が一の時とは? そしてその時に斬る相手とは?
どうにも嫌な考えしか思い浮かばない。
「何がご不安なのでしょう」
「え?」
「いえ、キリエ様は何かをご不安に思って、それで私にそのような質問をするのではと思ったもので」
キリエは少し間を置いてから、正直に答えた。
「それはもちろん不安はあります。八年前も不安でした。あの時はうまく乗り切れましたが、今回はどうなるのか分かりません。この後がどうなるのか、誰にも分からない。今回は託宣すらないのですから」
珍しく
「そういえば八年前にもそのようなことがありましたな」
「どのことです」
「キリエ様がミーヤにフェイをお付けになった時のことです」
そういえばそんなことがあった。
まだトーヤが宮に来て間もなくのこと、マユリアからは「助け手を丁重にもてなすように」としか命を受けてはいなかったのに、キリエはトーヤを見張るようにミーヤとフェイに命じた。同じく共をしろと命じられたルギにも毎日の報告をさせていた。
あの時にも感じていた違和感。今回もそれと同じような感覚だと思い出した。
あの時には先代の問題があった。常のシャンタルとは違う容貌、そして違う性別でお生まれになった先代。その秘密があったからキリエは神経を過敏なぐらいに尖らさせてトーヤを警戒したのだ。
「あの時と同じ顔をなさっているようにお見受けいたします」
あの時、八年前と同じようにルギがそう言った。
そうだ、あの時にもルギに「らしからぬ」と言われたのだった。
「そうかも知れませんね」
キリエは素直に認めた。
「あの時と同じ、確かにそうです。私らしからぬ、それもそうだと思います。それだけのことが今起こっているのですから、それも当然なのかも知れません」
「本当のことをお聞かせ願えませんか」
八年前と同じことを言ってきた衛士が、八年前とは違うことを口にした。
あの時は皮肉っぽく「らしからぬ」と言っただけで、自分にトーヤの見張りを任せてはどうかと言ったルギが、今回は何があったのかを聞いてきた。
「あなたは八年前とは違いますね。あの時はそんなことを聞いてはきませんでした」
キリエの言葉に今度はルギが黙った。
「つまり、あなたも何かを感じているのでしょう」
キリエは一度言葉を切ると、ルギに視線を向けて言葉を続けた。
「違和感です」
ルギはキリエの言葉を表情なく聞いている。
「何にどうとは申せません。ですが、何かがなんとなく違う。そんな感じがするのです」
それだけを口にすると、またキリエは沈黙する。
実際それ以上に言えることはない。何がどう違うか説明はできない。ただ、長年をこの宮で過ごし、二十八年間をおそばでお仕えしたマユリアの何かがなんだか違うのだ。
「ですが、あの時にあれだけ警戒心を抱いたトーヤとも、その後は思いを共有し、大事な方をお預けするほど信頼することとなりました。もしかしたら今回もそうかも知れません」
口に出してみるが今回はそうではないと思っている。
「きっと、色々なことがあり過ぎて心配しすぎているだけでしょう。私の杞憂です。忘れてください」
キリエは本当はそう思っていない言葉をルギにかけることで、どこかがおかしいと感じていることこそ本心だと告げた。
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