2 こぼれる痛み
ルギは夢に溺れそうになる。
(もしも、本当にそれがマユリアの夢であるならば)
ああ、それはなんと甘美な誘惑であろうか。
もしも本当にマユリアがそれをお望みならば、自分は永遠にマユリアを守る剣になろう。いや、すでにそうではないか、幼いあの日、自分はそう誓ったのだ。自分はこの方の物、永遠にこの方のそばにありたいと……
ルギは夢の中に沈み込みそうになる。
(本当にマユリアがその夢を美しいと思っておられるのならば)
自分もその夢を美しいと思っても、共にその夢を永遠に見続けてもよいのではないのだろうか。
揺れていたルギの進むべき道が、そちらにふらりと傾いて落ちそうになる。だがその時、ルギの心に残る目に見えぬほどの小さな傷、マユリアが本当のことを話してはくれなかったという事実がチクリとルギの心を刺し、かろうじて踏みとどまることができた。
そうだあの時、マユリアは本当のことを話してくれてはいたが、本当の心は教えてはくれなかった。
『海の向こうを見てみたい、海を渡ってみたい、そう思っていました』
その声と同時にある場面が頭に浮かぶ。それはマユリアがある男に抱きしめられ、幸せそうに微笑んで海の遠くを見つめている、共に海の向こうへ向かっている、そんな場面だ。
それを思うと体の奥にカッと湧き上がる何かがある。もしも、それがマユリアの真の夢、真の望みであったとしたら、自分はその夢を叶えるために永遠にマユリアと離れても構わないのか。
それは嫌だ。それだけは許せない。ルギの心の中の真実がそう叫ぶ。それを許すぐらいなら、たとえその道が誤った道であったとしても、美しい夢に溺れたい。
渦巻く心を抑えかね、ルギは今揺れている方向に落ちてしまいたいと思うが、同時にもう一人の自分の声が引き止める。
――マユリアが真の夢を神官長に語るのか――
それはおかしいと何かが押し留めてくる。それだけはありえないと理性も感情もどちらもがそう叫ぶ。マユリアが神官長と夢を分け合うなど、とても信じられないことだ。
――では、さきほどのマユリアの夢は、神官長の夢と偶然同じであったというだけのことなのか?――
「ルギ?」
ルギが主の声にハッと現実に戻った。
「どうしました」
「いえ……」
現実? 今、この場面が現実なのか? 間違いなく現実のようだとルギは思いながらも、さきほどのマユリアの美しい夢を見せる言葉を思い出すと、本当に現実なのかどうなのかが分からなくなる。
「ルギ?」
もう一度主が優しく、心配そうな響きを帯びた声でそう聞いてくださった。
「いえ、失礼いたしました」
ルギはなんとか真っ直ぐに自分を保つ。どちらにも倒れてしまわないように。
「さきほどの話の続きですが」
「はい」
頭をまっすぐに保ち、美しい夢の続きに耳を傾ける。どちらにも倒れないように気をつけながら。
「婚儀の前にご先代とお目にかかりたいのです」
ルギの中から夢が遠ざかる。現実に戻ることができた。
「あと3日、難しいとは思いますがお願いいたします。どうしてもお目にかかりたい、お会いしなくてはならないのです」
ルギは主の瞳をじっと見つめた。そこには真実の光があった。
「もう交代の日まで
確かにトーヤたちならどこかから忍び込むのが可能だとルギにも思えた。だが、外から人が入れそうなところは全て今まで以上に厳重に警備をしてある。そのために従来より密に当番を立て、衛士たちは文字通り休む暇もないほどなのだ。
それに戻ってきたら何かアランたちに動きがあるようにも思える。今のところその気配はない。
だがマユリアのお言葉は神の言葉、普通の人の予感や思いつきとはわけが違う。もしかすると本当に宮の内にいるのやも知れない。
「分かりました、捜索いたします」
「頼みましたよ」
ルギは溺れそうになる夢を脱ぎ捨て、現実の任務へと戻った。今はやることがある方が楽だ。夢を見る余裕もないほど忙しい現実に逃げ込む方が。
マユリアはルギを見送ると、胸の内に不思議な痛みを感じていることに気がついた。
(これは、当代の心か)
今まで感じたことがない痛みが心の内から染み出るようで、マユリアは戸惑う。
マユリアは神だ。シャンタルより低い位置に置かれてるとはいえ、神であることに間違いはなく、人より上の高みにある存在だ。それだけに人に対して愛を持ち、慈悲を与えてはいるが、このような痛みを感じたことは今までなかった。相手が誰であろうとも人は人、特別の感情を持つことはない。
(これは人が人に対して持つ痛みなのだろうか)
代々のマユリアは中にいる自分の心を、人を慈しむ心を受けとめて人の世に与えていた。今、立場が逆転し、自分の中にいる当代の心を女神である自分が受け止めている。そのことがなんとも不思議だ。
マユリアは戸惑う。
(これはわたくしが当代に近づいているのか、それとも当代がわたくしに近づいているのか)
どちらにしても同化は進んでいるようだと考えて、マユリアは痛みを黙って受け止めていた。
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