10 選ぶ
もしも、これが他の人であったなら、そのままそこから去っていたかも知れない。
マユリアがただの人に戻る日が近い、そう告げることの苦しさから。
だが、キリエは「鋼鉄の侍女頭」だ。
三十年以上に渡って侍女頭を務めあげたとの自負もある。
自分の使命から逃げるようなことはできない。
キリエは奥歯を噛みしめるようにして、
中から女神の許可が出て、鉛で出来た扉を押し開けるような気持ちで中に入る。
「報告がありました、数日のうちに次代様がご誕生になられます」
正式の礼をして、その言葉を口にする。
「そうですか」
女神はクッションに座ったまま、一言そう答えた。
「それで」
キリエは絞り出すように続く言葉を口にした。
「交代の後、どのようになさるのか、お心づもりを確認させていただけますでしょうか」
「交代の後は、前から申しております通り、両親の元へ帰りたいと思っています」
これまでにも何度もおっしゃっていたことだ。
思っていた通りのお言葉をいただいた。
「分かりました、そのように話をお進めいたします」
「よろしく頼みます」
そう言った後、マユリアがふと思いついたように、
「おまえは、わたくしのご両親がどのような方なのか、知っているのですね」
そう言った。
「申し訳ありません、そのことにつきましては、何も申し上げられません」
キリエはそう言って頭を下げる。
「そうですね、ごめんなさい。やはりどのような方たちなのか、そして今もご健在なのかが気になるもので」
「お気持ちはよく分かります。ですが、交代を終えられるまでは何も申し上げられない決まりなのです」
「分かりました」
マユリアはそう言った後、クスリと一つ笑い、こう言った。
「ですが不思議ですね。人に戻るとなった途端、みながどうするのかと聞いてくれるのです」
楽しそうでもあり、そしてさびしそうでもあるようにキリエには見えた。
「そして選べと言うのです。どうしたいのか自分で決めるようにと。これまで、わたくしには何かを選ぶなどということはできなかったのに」
おっしゃる通りだとキリエは思った。
マユリアは、次代様としてお生まれになり、シャンタルとなられ、マユリアになられた。
それはご自分で選ばれた人生ではない。
自分と同じく、目の前にある道を歩いて来られただけだ。
ただ歩けと言われた道を。
「不思議ですね、人に戻ると途端に何もかも自分で選ばなくてはならなくなる。それを思うと、神とは結構気楽なものだったのかも知れません」
キリエはどうお答えしていいのか困り、そしてこう聞いていた。
「誰が」
「え?」
「一体誰が、いつ、マユリアにそのように尋ねたのでしょうか」
マユリアが表情を緩め、思い出すようにこう言った。
「一番最初はトーヤでした」
「トーヤが」
そう聞いて、ああ、なるほどとキリエは思った。
「トーヤなら言いそうなことですね」
「そうでしょう?」
思わず主従の表情が柔らかくなる。
「本当に、いつでもとんでもないことを言い出す人です」
キリエがため息をつきながらそう言ったので、マユリアが声を出して笑った。
空気が一気に和んだ気がする。
「八年前になります。後は交代の日を迎えるばかりであった日に、自分と先代が戻ってきて、今度こそ交代を迎えたらどうしたいのか、そう聞かれたのです」
「それで、一体どのようにお答えになったのでしょう」
キリエの口からも自然にそんな言葉が出る。
「そうですね、それはミーヤに聞いてみてください」
「ミーヤにですか」
「ええ、その時、ミーヤがトーヤと一緒に聞いています」
「分かりました、聞いてみます。それで、さっきはみなとおっしゃいましたが、他は誰が」
「ルギです」
「えっ、ルギがですか」
さすがのキリエが驚いた声を出す。
その様子を見てまたマユリアが楽しそうに笑った。
「ええ、わたくしも驚きました」
そう言うマユリアの顔からは、さっきのような楽しげな表情が消えている。
「国王陛下がここに来られて、わたくしに皇妃になってほしいとおっしゃった時に、本当はどうしたいのかと聞いてくれました」
「ルギが、ですか」
「ええ」
あまりに意外過ぎて、キリエにはそんなルギの姿を想像することもできない。
トーヤがそうであったように、キリエにもルギは何があってもマユリアの
「マユリアは、人に戻られた後、どうなさりたいとお考えなのでしょうか、と聞いてくれました。そしてわたくしは先ほどおまえに申した通り、両親の元へ戻りたいと答えたのですが、そうしたら」
マユリアはその時のことを思い出したように複雑な顔をして、
「もう一度聞かれました。トーヤに答えた時のことが望みではないのか、と」
と言った。
「わたくしは、それはその時の想いであり、今は両親の元へ戻りたいというのが本当の気持ちだと言いました」
マユリアは一つ目を閉じて続ける。
「そして、もしも不幸にして、両親がすでにこの世の方ではないのなら、その時には宮へ戻り、ラーラ様のように一生をシャンタルに捧げたい。そう言いました」
キリエは知っている。
その道は選べないということを。
マユリアの母は、今、この宮にいるのだ。
次代様の母として。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます