16 特別なパン
小さなシャンタルは応接を後にして寝室に入ると、そのまま寝台には行かず、今はラーラ様の部屋になっている侍女部屋の扉を叩いた。中から返事はない。誰が声をかけても返事はしないことになっている。それほどに秘密の方がここには身を潜ませている。
「入りますよ」
返事がないのを分かっていても、シャンタルはそれでも小さな声でそう言ってから扉を開けて部屋に入る。
八年前にミーヤがしばらくの間滞在していたその部屋は、今はラーラ様が快適に過ごせるように色々と
ラーラ様はずっとシャンタルと同じ寝台で休んでいたが、この部屋がこうなったのは、当代に交代してから比較的すぐのことであった。それまでは先代「黒のシャンタル」の秘密を守るため、シャンタルの部屋にはラーラ様、この部屋にはネイとタリアの二人が待機していたのだが、交代の後、その必要はなくなった。そのために侍女部屋をラーラ様の部屋にして、他のシャンタル付き侍女たちは自室で待機する形になった。侍女たちにはそれぞれ部屋を与えられているが、ラーラ様を他の侍女たちと同じ扱いにするわけにはいかず、そうなったというわけだ。
シャンタルがラーラ様の部屋に入ると、ベルが扉のすぐ近くまで迎えに来てくれていた。
「はい、これ」
シャンタルが手ずから作ったお弁当を渡すと、
「シャンタル
礼を言いながらベルが受け取る。
「アランが作ってくれた遠足のパンを真似をして作ってみたの」
「えっ、シャンタルがご自分で作ってくださったのですか!」
「ええ」
ベルはまさかアランがシャンタルにそんなことを教えているとは思わずに驚くが、シャンタルは得意そうにそう言って胸を張る。
「どうしましょう、そんな畏れ多いこと……」
上品に侍女らしくそう言っているが、ベルの本心はこうだ。
(おいおい、兄貴何教えてんだよ! そんな神様が作ってくれたようなもん、どう食えってんだ!)
オロオロしているベルにシャンタルは、
「エリス様は他の方の前でお食事がいただけないのよね。だからわたくしは部屋に戻ります。ゆっくり召し上がってくださいね」
と、ニコニコ笑いながら寝室に戻ってしまった。
今はここで身を隠している立場だ。声をかけることもできずベルは呆然としていたが、やがてくるりと振り向いてシャンタルから受け取ったお弁当を抱え、「エリス様」の前に無言のままで立つ。そんなベルに「エリス様」の中にいるシャンタルが、もしもの時のために中の国の言葉で一言こう言った。
「じゃあ食べようか」
「って、おい、そんだけか?」
ベルはさすがに少しばかりムッとする。シャンタルからすると当代は実の妹、しかも自分が託宣で選んだ次のシャンタルなのだ。そんな浅からぬ縁のある少女が自分で作ったとこっそり持ってきてくれたお弁当に、もう少し何か反応するすることはできないものか。それに、たとえ神でもなく血縁でもないとしても、やっぱりあんなかわいい子が一生懸命持ってきてくれたのだ、もうちょっと何か言ってほしいと思った。
「だって、せっかく作ってくれたんだから、おいしいうちに食べようよ」
「そりゃそうなんだけどさ、なんか他にないのかよ……」
そこまで言ってベルはため息をつく。シャンタルがそんな人間であるとはよく分かっている。これ以上言ってもしょうがない、そんな気持ちだ。
ベルは黙って「エリス様」の隣に座ると、受け取った「遠足のパン」を3つ渡す。シャンタルはエリス様の被り物を取ると、手に持った一つを美しく口にした。
「まったく、何やってもきれいなやつだな!」
ベルはなんとなくイラッとして、そんな風に悪態かどうか分からない悪態をつく。
「ベルも早く食べたら、おいしいよ、これ」
「るせえな、食うよ!」
二人で並んで小さなシャンタルの心遣いをもくもくと食べ終わる。
「そういえば、私が自分で初めて食べたのもこの遠足のパンだったんだよ」
シャンタルが唐突にそう言い出した。
「食べるということを知らなかった私に、キリエとミーヤが自分で食べることを教えてくれた時に作ってくれたんだ」
「えっ、そうなの?」
ベルも二人がシャンタルからその話を聞いてはいたが、それが遠足のパンだったとは初めて聞いた。
「そういや、おれがシャンタルと初めて食べた時にもこれ作ってくれたよな」
「うん、そうだったよね」
命を落としそうになっていたアランをトーヤとシャンタルが助けてくれて、トーヤがアランを見ていてくれている間、シャンタルと二人、宿屋の食堂で食事をした。その時にベルはナイフやフォークを使って物を食べるということがうまくできなかった。ずっと戦場暮らし、食べられる物を手づかみで食べるという生活だったからだ。それでシャンタルが遠足のパンを作ってくれたのだ。
「なんだか特別なパンだよね、これ」
「そうだな…」
二人は今はもう食べ終えてしまったパンが、まだそこにあるかのように手元をじっと見ていた。
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