16 温かい湯気の向こうに

 キリエはミーヤを伴って自分の執務室へ連れて行くと、侍女頭の当番の侍女にお茶とお菓子を持ってこさせた。


 キリエは何も言わず、ミーヤと向かい合ってお茶を飲んでいたが、ヌオリたちが宮を出る準備ができたと連絡が来ると、


「少しここで待っていなさい」


 とミーヤに言いおいて、部屋を出ていった。


 ミーヤは一人、キリエの執務室でキリエを待つ。


 落ち着いた気持ちで考えると、自分の身の上に起きようとしていた事態がどれほどのことであったのかがあらためて恐ろしくなってくる。


 これまでにもそういうことは言われたことがあった。八年前、トーヤが宮を去った後、そんな風に言われていたことが耳に入ったこともある。そしてセルマにはそれを理由にエリス様ご一行を引き入れたのだろうと、いわれのない罪を着せられ懲罰房に入ることになった。


 だが、何を言われてもミーヤは動じなかった。事実ではないし、なんと言われようとも自分が宮に一生を捧げると誓った心は嘘ではないからだ。言いたい人には言わせておけばいいと思っていた。真実は天が、そして自分を知る人たちだけが知っていればそれでいいと思っていた。


 ミーヤが恐れていたのは、自分が誓いを破ることだ。あの幼い日、自分は天に誓ったのだ、一生を宮に、シャンタルに捧げますと。幼い時の誓いであっても、心の底から誓った。その誓いを破るということは、天に嘘をつくということだ。侍女にとって嘘をつくのは大変重い罪だ、「穢れた侍女」になるのと同じぐらいに。


 その罪を犯すことで自分が望むただ一つの願い、それが叶わなくなることをミーヤは心底から恐れている。


(私はトーヤを失いたくない)


 八年前のあの時、一度だけキリエに本心を吐露した。


『はい……シャンタルをお助けしたい……もちろんそれが一番大きな願いです。ですが、私はあの人と二度と会えないということ、それにも耐えられそうにありません……』


 真実を知ったトーヤが突きつけた残酷な条件、自分の意思がないような、人形のようなシャンタルに、自分の口でトーヤに助けを求めさせること、そのために必死にシャンタルを目覚めさせようとした。


『私はこの宮の侍女です……この先は誓いを立て、宮にこの人生を捧ささげるつもりでおります。ですから、会うだけでいいのです……会って、何年かに一度だけでいい、顔を見て、言葉を交わす、それだけでいいんです。天は、それほどの小さな望みも捨てよと申されるでしょうか……』


 あの時の願いの一つ、シャンタルをお助けしたい、それはすでに叶った。もちろん、交代を無事に終わらせたい、シャンタルを今度の交代に割り込ませ、当代をマユリアに、次代様を当代シャンタルの座におつけするという目的も叶えたい。そのためのあの八年前の出来事なのだ。


 だが、ミーヤは信じている。きっと、トーヤたちがその目的を叶えてくれると。だから、自分はあの時と同じく、自分にできることをやるだけなのだ。それが自分の役目なのだと。


 ミーヤの残る望みはただ一つ。そのためにも自分の誓いを破ることはできない。もしも、そんなことをしてしまったら、自分は永遠にトーヤを失うだろう、そう思う。それが神に誓うということなのだ。


 トーヤがルークと名乗って宮へ戻っていると知った時、驚きはしたがとてもうれしかった。だが、その傍らにいた女性、そう、エリス様の侍女と名乗っていたベルとの仲を疑った時、自分でも思わぬ感情が湧き上がった。それが嫉妬であると知り、ミーヤはとても衝撃を受けた。


 ずっと思っていた。もしかしたら、トーヤは自分の知らない誰かと結ばれて幸せになるかも知れないと。もしもそんなことがあったとしても、それはそれで仕方がないことなのだと考えていた。自分が望むのは、この先の人生で、本当に時々でいい、トーヤと会って言葉を交わすことであったから。共に歩きたい、結ばれたいなどと思ってもみなかった。それなのに、トーヤの隣に並ぶ人がいた、そう思った途端、自分で自分の感情をどうにもできなかったのだ。


(なんと罪深い……)


 そう思ってしまったことすら、天への裏切りのような気がした。


 シャンタルのあの不思議な魔法、自分を守ってくれたあの魔法、天に向かって矢を射たという男の話、すべてが自分の行いに対する天の戒めのように思える。そんな感情を持つことで天への誓いを破っているように思えるのだ。今回のことも天罰であったようにすら思える。


 自分は何も望まない。ただ一つ、この先の人生でトーヤとの関わりを持てること、そのことだけは失いたくない。だから、自分は決して誓いを破ることはいたしません。ミーヤはあらためて固く誓っていた。


 ミーヤが冷めたお茶をじっと見つめながらそんなことを考えていると、キリエが部屋に戻ってきた。


「待たせましたね」

「いえ」


 キリエは自分が行った後、ミーヤが菓子にもお茶にも手を付けず、じっとそのままでいたことに気がつくと、もう一度担当の侍女を呼び、お茶を入れ直してくれるようにと頼んだ。


 もう一度温かいお茶が運ばれ、ミーヤの前のカップが温かい湯気を立てる。その湯気を見ているミーヤの瞳から、すうっと一筋の涙が流れた。

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