8 戯言
「あなたはどうかしている」
ルギはやっとのことでその言葉だけを口にした。
目の前にいるこの壮年を超え老年に入ろうかという男、今までに何年も見知った神官長という男、その知っていると思っていた男が得体の知れない生き物に見えた。
「どのようなつもりでそのようなことをおっしゃっているのかは分かりませんが、罪を逃れたいばかりにそのような作り事を申されているとするならば、私には通用しません。そして本気でそうお考えならば、一度侍医を呼び、診てもらった方がよろしいかと思います」
ルギが見た目だけはいつものように淡々とそう言うと、神官長は小さく震えながら笑い出した。小さく流れるような笑い声だけが静かに部屋に
「何がそのようにおかしいのでしょうか」
「いやいや、失礼を」
ルギの静かな質問に、何事もなかったかのように神官長はそう答える。
「なあに、
ルギは珍しくきつい目で神官長を睨みつけた。
「この国が一番良い方向にいくためにはどうすればよいだろう。日々そのように考えておりますと、その結果思わぬ方向で空想することもある、ただそれだけのことです。さきほどの話はその中の一つ、そう、ちょうど美しい夢を見たようなものでした。それがついつい、口をついて出てしまいまして」
嘘だとルギは思った。
だが口には出さない。
「そもそも私は罪を逃れる必要などありません。何か私がキリエ殿を害したという証拠などがあるのでしょうか?」
ない。
セルマに関してはいくつか怪しむ点が出てきた、それとあの発言で身柄を確保したが神官長に関しては何もない。
「あの香炉のことをセルマ様に教えたのは
「単なる世間話です」
「最初からそうする目的で話したのではないのですか?」
「そうするとは?」
「キリエ様を不調にし、セルマ様にさらに奥宮での力を持たせるため」
「なんのために」
「さきほどおっしゃったように、セルマ様と共にマユリアを説得して皇妃の座に着け、国王陛下に恩を着せるため。そうして神殿の影響力をさらに大きくなさるおつもりかと」
「これはこれは」
神官長が驚いたように目を丸くする。
「さきほどの戯言を真に受けられたのですね。まさか本気ではありますまいな、もしもそうならすぐに侍医に診察を受けられた方が」
ルギの言葉をそのまま言って返す。
「よくお考えください。私がキリエ殿に何かをしたという証拠も、そんなことをする理由もどこにもない。ただ、もしかしたらセルマが昔の世間話からそのようにすることは可能であったかも、とふと思いついただけのこと」
ルギは黙って聞いている。
「さきほども申しました通り、セルマは誠実で生真面目な人間です。ですから何かをやったとしても、それはこの宮のため、この国のため、この世界のため、それは間違いがありません。そして、今一番調べねばならぬのは、あのご一行がどのような目的でこの国に身分を偽って入り込んできたのか、それではありませんか?」
八年前のことを、あのことを知らぬ者からするとそう考えても仕方がないと思われた。
実際に副隊長のボーナムや第一警護隊長のゼトなども、あの一行が怪しいと考えている。
「さきほど話した夢の話ですが」
ふいに話題を戻され、ルギがちらりと神官長を見る。
「美しいとは思いませんか? この国がそのように美しい国になる、素晴らしい夢だとは思いませんか?」
ルギは視線を外さずじっと神官長を見つめた。
「そして、あなたは美しい女神の第一の
ルギは何も言わない。
「人は、きれいな夢を見ても良いのだとは思いませんか?」
夢……
ルギはふと思い出した。
『海の向こうを見てみたい、海を渡ってみたい、そう思っていました』
『さきほども申しました通り、両親の、実の親の元へ戻りたいと考えています』
マユリアの夢……
どちらが真のマユリアの夢なのか……
少し考え込む風のルギを見て、神官長が少しだけ片方の
「そう、夢です。きっとマユリアもそうお望みだと思いますよ。美しい国、頂点に立つ美しい女神、
「それも戯言でよろしいか」
ルギが切って捨てるように言った。
「ええ、もちろん」
神官長はゆっくりと笑うと椅子から腰を浮かせた。
「思わぬ長居をしてしまい申し訳ありません。キリエ殿の一件、そして今日逮捕した二人のことでお忙しいというのに。ですが、何か協力できればと考えて、以前セルマに話したことを申し上げにまいった、そのことをご理解いただきたい」
ルギが黙って座ったままなので神官長は少し様子を伺っていたが、やがてすっと立ち上がった。
「もちろん私はセルマに罪があるとは一切思ってはおりません。その上で、隠し事はいけない、そう思って正直に申し上げにきただけのことです。その意味をよくお考えください」
そう言ってから一礼し、
「また何か思い出しましたら伺います」
そう言ったが、それでも座ったままのルギをもう一度見てから部屋から出ていった。
『人は、きれいな夢を見ても良いのだとは思いませんか?』
ルギは神官長の言葉を思い出し、聞くべきではなかったと思っていた。
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