部下
第16話 夏の昼下がり、いつもの店で
セミの声がうるさい。
朝から蝉の声しか聞こえない。
住んでいるマンションのすぐ北側が山なので、セミ共の集合住宅の隣に住んでいるようなものだ。
生まれてから毎年恒例なので慣れたといえば慣れたが、うるさいと感じるのは仕方ない。
クーラーの効いた部屋にいる時は窓を閉め切っているからいいようなものの、一歩でも家を出ると夏の暑さとセミの声が一気に襲い掛かってくる。
午前中に今日の課題を済ませ昼飯を食ってから、その強敵を跳ねのけて溶けそうになりながらたどり着くのが安藤さんの店。
こんな思いをして毎日のようにここに通っている僕は、もっと褒められてもいいはずなんだが……扱いがどんどんとぞんざいになっていくような気がする。
案の定、店に着くなり僕を迎えてくれたのは「また来たのか?」という安藤さんの冷たい視線だった。
それでも僕は負けずに更に冷たい「アイス珈琲」を注文をする。
オヤジ曰く、こんな昼間から開けているオマヌケなBARにお客さんなんか来るわけがない。
どうせ暇なんだから、僕が来ているだけでも暇つぶしにはなると思う。
ただ、僕の飲んだ珈琲代はオヤジのツケになっているようで、安藤さんから請求されたことはない。
なんだかそれは少し悔しかったが、安藤さんに「息子に何もしてやれなかった一平に、罪滅ぼしのチャンスをくれてやれ。それって息子の亮平しかできないんだから……」と脛かじりを勧められてからは、遠慮なくオヤジのツケで珈琲を飲ませて貰っている。
大人ってなかなか難しい生き物の様だ。でも、オヤジの脛をかじるのは新鮮な感覚を覚える。
夏休みの僕はここに来る前にコンビニで買った週刊誌をこの店で読んで、読み終わったらこの店に寄付するという行動パターンになっている。
僕が読んだあとは安藤さんが読んで、その後はオヤジか
先週は冴子のお父さんが読んでいた。一応、大会社の社長らしいのだが……。
カウベルが鳴った。扉が開いてお客さんが来たようだ。
「いらしゃいませ」
安藤さんの声が固い……どうやら珍しく
僕は振り向かずに週刊誌を読んでいた。
その客はカウンターの前まで来ると
「ご無沙汰してます。大迫です。この前はうちの嫁がお世話になったみたいで……」
と安藤さんに挨拶をした。
その声につられて僕も頭を上げて今入ってきた客をちらっと見た。
体格のガッチリとした男の人でワイシャツを腕まくりしてネクタイもしていないが、この店には仕事中に寄ったという感じだった。
一瞬『何のこっちゃ?』と言う顔をあらわにして、不信感を思いっきり醸し出していた安藤さんだったが直ぐに思い出して
「ああ、愛ちゃんの旦那の大迫君かぁ?」
と大きな声で応えた。
「はい。そうです。ご無沙汰してます。この前、『ここに寄った』って嫁に聞いたんで僕も顔を出してみようと思ったんですが……うちの大将、いませんかぁ?」
「今、出てるなぁ。珍しく仕事しているからな」
とまだ大きな声で安藤さんは応えた。
「そうなんですか……。でも取りあえずアイス珈琲下さい」
そういうと大迫と名乗ったその男の人は僕の席から一つ空けてカウンターに座った。
――そうかぁ、この前、宏美と冴子と三人で居た時に来た美しい人の旦那がこの人かぁ――
あの美しい人の旦那さんならどんなにイケメンかと思っていたら、オヤジと変わらない歳恰好のオッサンだった。でも腕力はありそうだった。
オヤジの事を『うちの大将』って呼ぶんだこの人は……ちょっと新鮮で恰好良い。
安藤さんはカウンターにお冷とおしぼりを置きながら
「もうすぐ帰ってくると思うけどねぇ」
と大迫さんに言った。もう声は通常営業モードに戻っていた。
「そうなんですか。それなら少し待ちます」
「うん。ゆっくりしてって……」
「あ、はい」
「ところでね、大迫君の横に座っているのはその大将の息子なんだけど」
と安藤さんが僕を大迫さんに紹介した。
「え?」
そういうと大迫さんは僕の方に振り向いて、しばらくじっと見ていたかと思うと
「へぇ、そうかぁ。藤崎さんの息子さんかぁ。大きくなったなぁ……」
と驚いたように話しかけてきた。
「はい。いつも父がお世話になっています。藤崎亮平って言います」
僕も精一杯の常識的な息子を演じようと頑張った。後で『挨拶一つまともに出来ひんのかぁ』とオヤジに詰(なじ)られたくなかった。
「僕はね、お父さんのサラリーマン時代からの後輩でず~と一緒に仕事をやってきたんやけどね。本当にお父さんにはお世話になってん」
と言って僕に頭を下げた。
「この人なぁ、一平がサラリーマン辞めて起業したらついて行った酔狂な人や」
と安藤さんが教えてくれた。
「酔狂な人はもう一人ましたけどね」
大迫さんはそう答えて笑った。
「そうなんですかぁ。父と一緒に仕事をしてくれてありがとうございます。そんな人に来てもらえるなんて父も草葉の陰で喜んでいる事でしょう」
と僕は応えた。
何故かこの人にはこういう返事をするのが良いように思えたし、オヤジの後輩ならこれぐらいの事をカマしていないと後でオヤジに「洒落の一つも言えんのかぁ」と馬鹿にされそうな予感がした。
「いや、まだ死んでいないでしょ……」
大迫さんはそうツッコむと
「流石、藤崎さんの息子やな」
と大笑いした。
なにが流石なのかは分からないが、どうやら受けたようだ。すべらずに済んで良かった。
安藤さんがアイス珈琲を大迫さんの前に置きながら
「まあ、一平の息子やからね。それにこの頃はオヤジの影響が大きいからな」
と笑いながら言った。
「そうなんですね」
と大迫さんも笑いながら頷いた。
「ずっと父と一緒だったんですか?」
と僕は笑わずに聞いた。この時点で週刊誌を読んでいたことを忘れてしまっていた。読みかけの漫画よりオヤジのサラリーマン時代の話の方が興味をそそられる。
「そうやねえ。同じ営業所で働くようになって十五年ぐらいになるんかなぁ。その少し前からお父さんの事を知っていたんやけどね」
と、大迫さんは天井を見上げなら昔の記憶を辿る様に話し出した。
「僕が会社に入社した時は、藤崎さんはもう売れている営業マンやってね。憧れの先輩で怖い人やったなぁ」
と大迫さんは懐かしそうに話した。
「そんなに仕事に厳しかったんですか?」
僕は少し驚いた。今のオヤジからは想像もできない台詞だ。
「うん。厳しかったなぁ。他の人とは、違うところがね」
「違うところ?」
「うん。他の上司が『新規の訪問社数や飛び込み件数が少ない』って怒るようなところは全然怒らなかったけど、『遅くまで働くな!』とか『煙草の火をつけるのが遅い』とか『酒の注ぎ方が悪い』とか言ってよくしばかれたなぁ」
「なんですか? その傍若無人な体育会系な態度は? 仕事に関係ないんじゃないですか?」
そこはオヤジならやってもおかしくないなとは思ったが、なんか一世代古いかな? とも思った。
「その時は無いなぁって思っていたんやけどね。ところが後でそれが役に立ったんやなぁ。ホンマに。
でもねえ……君のお父さんってほとんど昼間はマンガ喫茶でお茶をしてるような人やってね。一緒に研修で同行した時なんかは、お客さんのところには一件も寄らずに営業所から直行で漫画喫茶に行って『今日のノルマはこれだけや』とコミックを二十冊ぐらいテーブルに積んどったからなぁ……だから訪問件数とかそんな営業過程の些細な事はよっぽど売り上げが酷くない限りツッコまれなかったなぁ」
大迫さんは笑いながら懐かしそうに話した。
「え? そんなんでオヤジは営業出来ていたんですか?」
「うん。それで全社一番。絶対額では誰にも負けてへんかった。それもダントツで……」
「え~、信じられへん」
そんなんでどうやって業績を上げていたというんだ? 思わず僕は声を上げてしまった。
「それがどうやら本当らしいんや」
と安藤さんが横から口を挟んだ。
安藤さんの言葉に大迫さんは頷くと
「そう、腹が立つぐらい仕事が出来てたなぁ。所長や上司が最後の最後で数字を頼むのは藤崎さんやったしな。
営業所で一番売っているのに、更に『あと100万売れ』って言われて、電話一本で決められるのは藤崎さんだけやった」
と話を続けた。
「残業もほとんどしいひん人やったなぁ。七時になったら『飲みに行くぞ』って言いだすからメンバーはそれまでに仕事を終わってなくちゃならんかった。そこで『まだ仕事が……』なんて言おうもんならしばかれたな。それからしばらくは飲みにも連れて行ってくれなるし」
「それは酷いですねえ……」
わが父ながら若い頃は酷い男だったようだ。
「でもね。藤崎さんのチームは誰も数字を外さないので有名やった」
「え?」
「昼間からマンガ喫茶に居て、夜は七時以降は仕事もせずに飲みに行っているような男のチームが全社で一番売れとったなぁ。それも何年も、面子が代わっても、誰が異動で来ても出て行っても数字は外さない。売り上げはいつも一番。自称世界最強の営業チーム」
「へえ~」
ちょっと驚いた。
「『仕事は時間でするもんやない!中身や』それが藤崎さんがいつも言っていた事やったな」
「普通、後輩は先輩や上司の真似をするもんやけど、あの人の真似だけは絶対に出来ひん。誰も出来ひんかった。だから参考にも見本にもならん人やった」
なんだか、わがオヤジは凄いサラリーマンだったようだ。
「でもね。いう事はいちいちまともで理論的だった。ただそれは普通の営業マンには気がつかない事が多かったけどね」
大迫さんは淀みなくサラリーマン時代の親父の事を語ってくれた。
本当にネタの多いオッサンだったようだ。
「そう言えば、こんな事もあったな」
と大迫さんが語り出した。
大迫さんはまだ沢山オヤジのネタを持っているようだ。
なんだか他人から聞くオヤジの話は新鮮で面白い。「今日は良い時にこの店に来た」と思った。
話はこうだった。
その当時オヤジが勤めていた会社は三か月ごとに営業目標の売り上げ数字を営業所の会議で決めていた。
その数字を決める会議中に、新卒で入社して三年目に入ったばかりの社員がいた。
残念なことに彼は入社以来一度も目標数字を達成した事が無い社員で、その月からオヤジのチームのメンバーになっていた。
その営業所の会議の席上でその全く売れない社員が新たな三か月間の目標数字を発表したところ、周りから『そんな数字達成できるのか?』『やる気を見せただけで達成できなかったら意味ないねんぞ」とか詰められていたらしい。
で、数字を下げると『やる気あんのか?』ってまた
そんな悲惨な状況に置かれていたメンバーが、周りのチーフや先輩から詰められるのをオヤジは何も言わずただ聞いていたそうだ。
大迫さんはオヤジが何も言わないので「珍しい事もあるもんだ」と思ってみていたら当時の所長が
「おい。藤崎、担当チーフとしてどうするんや?」
と聞いてきた。
「本人がやるって言っているんですから、信じてやらせれば良いじゃないですか?」
とオヤジが応えると同僚のチーフが横から
「それで、こいつはいつも目標を外しているんやけど……」
と半分嫌味のように言ってきた。
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