第85話 ラ・カンパネラ
冴子に言った『カンパネラ』という曲はフランツ・リストのピアノ曲なのだが、実はニコロ・パガニーニのヴァイオリン協奏曲第二番第三楽章のロンド『ラ・カンパネッラ』の主題を編曲して書かれている。Campanella とは、イタリア語で「鐘」という意味だ。
僕はしばらく鍵盤を見つめて「どう弾こうか?」と考えていた。
久しぶりに弾くラ・カンパネラだ。
――ホンマに久しぶりやな――
2オクターブの跳躍と小指と薬指のトリルは結構気を遣う。全ての音を綺麗に正確に弾かなくてはならない。それでいて技術だけにとらわれると本当に単調な曲になるのでちゃんと変化をつけてメロディラインを際立たせて弾かねばならない……などと目を閉じて頭の中で一度軽く弾いてから僕は鍵盤の上に指を置いた。
その瞬間、閉じた瞳はこのピアノの音を見た。そう、目の奥に音が七色に輝いて飛び込んできた……いやもっと多くの色が飛び交っていた。
このピアノの持つ独特の音の色。それが瞼の奥を鮮明に輝かせていた。
その鮮明に浮かんだ色彩のダンスに導かれるように僕は鍵盤に指を落とした。
最初は右手の跳躍を軽くはっきりと響かせながらも柔らかく、左手は優しく語り掛けるように弾く。切ない声で語りかけるように始まる導入部。これはこのピアノからの要望であり希望だった。確かに今ピアノの意思を僕は感じ取っていた。
僕は考えることを放棄してピアノの意思を感じるままに弾くことにした……というか考えるのが面倒になっていた。このままこのピアノの言うがまま弾いていたいのと、目の奥に浮かんだこの色彩を楽しみたかった。
さっきのトルコ行進曲と違って、今度はピアノが奏でたい音が僕の頭の中を占領した。
右手は少しゆっくり目に音を奏で始めた。
――いつもより遅い?――
そんな違和感を覚えながらも僕の指は鍵盤の上を心地よく踊っている。
――今、僕はちゃんと鐘と一緒に歌えているだろうか?――
両手の跳躍は抒情的にそして最後は情熱的に謳うように僕の指は鍵盤を叩いている。
そして切なく、最後はピアノがピアノである事を忘れ去るように鐘を思い存分響かせた。
相変わらず閉じた瞼の裏側で色鮮やかな光が飛び交っていた。
それはまるで夜空を舞う蛍の様でもあり花火の様でもあった。
薄く目を開けて鍵盤を見るといつものような無機質の白と黒ではなく、あたたかな柔らかい感触が僕の指先から伝わって来た。
――今、ちゃんとピアノの意思を感じ取っている――
僕はそんな確信にも似た実感があった。
最後に鐘を鳴り響かせて静かに鍵盤から指を離した。
僕は弾き終わった後の余韻を楽しむように目を閉じて部屋にこもった残響を聞いていた。
そして目をゆっくりと開けて周りを見渡した。
「亮ちゃんって、こんなに優しい音を出していた?……というかこの曲ってこんな弾き方できる曲やったんや……こんな優しい右手の音を聞いた事ない……」
と驚いたような表情で宏美が聞いてきた。
「あんた……聞きたい事わんさかあるわ。言いたいことも沢山あるわ」
冴子が感情を押し殺したように言ってきた。
僕は冴子が言いたい事がなんとなく分かった。
「あんた、コンクールに出る気あんのか?」
冴子は予想通り直球で聞いてきた。冴子らしい聞き方だった。
「あるで……一応……」
「こんな解釈で弾いてコンクールの本選に残れると思ってんのか?」
「アカンか?」
「アカンやろ。感情入れ過ぎやろ……宏美どう思う」
「私はこの亮ちゃんの音も好きやけどなぁ」
「好き嫌いは聞いてへん」
「うん。分かっとぅ……これじゃあ無理……やと思う。ただカンパネラやったら、これもアリかなとは思わなくもないけど……」
と宏美は歯切れの悪い答えを返して冴子に睨まれていた。
宏美は首をすくめて舌を出して笑って誤魔化していた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます