第86話 力任せのヴィルトゥオーソ

 冴子は首をかしげて少し何かを考えていたようだったが

「あんた、最近先生の前でピアノ弾いたか?」

と聞いてきた。


「先生って、伊能先生?」

久しぶりにピアノの先生の顔が頭に浮かんだ。結構な歳だがまだまだ元気なおばさんだ……いや、お婆さんか?


「そう」


「いや、高校に行ってから先生の前では弾いて無い……というかそもそもレッスン行ってないもん」


「そうやったな。でもこの音聞いたらなんて言うやろか?」


「これでコンクールに出るって言うたら『アカン』って言うんやろなぁ……」

 冴子に言われるまでもなく、僕にもそれは何となく分かっていた。

確かに自分のコンサートで弾くには全然問題はないだろう。それはピアニストの解釈であり個性であり技術でもある。そしてそれを認める観客がいるという事だ。


 しかしコンクールは違う。言ってみれば、いかに作者の意図を汲み上げて演じられるかだ。

当たり前の事だがそれを忠実に再現できる技術があっての話だ。そしてその中に自分の表現を組み込むという作業をしなければならない。

ある意味過酷な作業だ。


 今までの僕はそれが当たり前で、その作業を苦痛だと思った事はなかった。どちらかといえば完成度の高い音をどうやれば出せるかだけを考えていた。ゲームは難易度が高ければ高いほど燃える。

誰もクリアできないゲームはクソゲーだが、そんな事はおこらない。そもそもそんなクソゲーみたいな曲を選んでコンクールに出る愚か者はいない。



 僕は完璧な攻略法を見つけたかった……実現したかった。僕にとってのピアノはTVゲームのコントローラーみたいな存在だった。

そしてオヤジに言わせれば僕のピアノは、インベーダーゲームの名古屋打ちの完成度を競うようなものらしい。一度、オヤジにそう言われたことがあった。


 僕はインベーダーゲームはTVゲームでしかした事がなかったが、オヤジ達は喫茶店で百円玉を積んでやりまくっていたと言っていた。


「完璧な名古屋打ちは賞賛に値するけどな」と笑いながら言っていたが、オヤジはそれ以上の事は何も言わなかった。


「俺はコンクールなんかどうでもええねん。ホンマの事を言えば……」


「え?」

冴子は僕の言葉を聞くと少し驚いたような表情を浮かべた。


「なんちゅうかなぁ……上手く言えんねんけど、表現者にはなりたいねん」


「表現者?」


「そう。ピアノで俺は俺の音を表現したい……この頃そう思うようになってん。でも、それからが分からへんねん……いや、正確には『なんとなくこの場で弾くべき音』は判るんやけど、その想いに腕が付いていかへん」


「表現者って……あんたピアニストになるんちゃうの?」

冴子が眉間にかるく皺を寄せて怪訝な顔で僕の顔を覗き込んだ。


「それって俺の父さんに聞いたんか?」


「ううん。安藤さんに聞いた。『亮平はピアニストになりたいって言っていた』って」

冴子の表情をから険しさが消え、さっきまで僕が感じていた挑戦的な空気は感じられなくなっていた。


「安藤さんが言うてた様に俺も父さんの音だというのは弾きながら分かっててん。でもな、後で思い返してみると明らかに父さんのとは違うねん」


「どういう事? あんた、お父さんのピアノを聞いた事ないやろ?」


「うん。無い。無いけど分かるねん。父さんならこの全音符もっと柔らかいピアニシモで弾きよるって……それも腹にずんと来るような音で。その音は俺の耳にも聞こえるねんけど、それが弾かれへんねん。同じ音が出されへんねん。似た様な感じには弾けていると思うけど、やっぱりちゃうねん」


 冴子は僕の言葉を聞くと宏美と顔を見合わせて、どう応えていいか分からないといった表情を見せた。


「今のラ・カンパネラもそうや。もっともっと音を響かせたかったんやけど、結局は力任せや。あの鐘は力強く打ち鳴らす鐘の音やない。天から降り注ぐ音なんや。一緒に天使が舞い降りる音なんや。響くけど柔らかくそれでいて力強い音や。それを弾きたかったんやけど、出てきた音は力任せの*ヴィルトゥオーソや……そう、俺にはまだ何かが足りひん……」


 僕は自分の気持ちを正確に伝える言葉が見つからず、天井を見上げて息を吐いた。




*ヴィルトゥオーソ:この場合超絶技巧・あるいは超絶技巧で弾ける者という意味で使っています。 

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