第122話 消された音符
ヴォーカルの部分をピアノでカバーするのは分かるが、それは案外難しい事だ。何も考えずにそのまま弾いたら軽くて下品な音になりかねない。薄っぺらい音になる。
「そんな……ええ加減な……」
折角のヴァイオリンとチェロの美しい純正律のハーモニーをピアノで叩き潰さないように弾かねばならない。その為にはどうすれば良いかを悩んでしまいそうだ。
僕は譜面を見ながら考えた。
ヴァイオリンとチェロはほとんど原曲を変えない様に書かれていたし、言い訳がましい台詞とは裏腹に迷いもなくしっかりと音符が詰め込まれていた。
弦楽器のパートはオリジナル比べて圧倒的に弱いが、この二人の力量ならこれでなんとかなるような気がした。
原曲と比べ音の厚みにかけるのは仕方ない。勿論、これからこの楽譜を元に更にアレンジを加えていくのだが、それにしても瑞穂は相当な執念でこれを書き上げたようだ。
スカスカに見えたピアノのパートはよく見ると何度も何度も書き直した跡が見てとれた。それはメロディラインの音符が細かく書き込まれた跡だった。瑞穂のピアノパートでの苦闘が譜面のかすれた音符の跡から伝わってきた。最後の最後に彼女はそのほとんどを消していた。
そのかすれた跡を目を凝らして読んでみるとメロディラインは軽いタッチで刻んで十六分音符で流れるように弾くように書かれてあったのが分かった。音の粒が細かく流れていくように。でも余計なおかずは入れていない。
右手はメロディを軽やかに追いかけ、左手はコードで刻むという事なんだろう。
リズムとベースラインを左手でチェロの邪魔にならないように弾くにはこれが一番いいような気がした。
案外このこの消されたスコアはいいかもしれない。ヴァイオリンとチェロのストリングスを活かすのであれば僕が考えてもこうなるような気がする。しかしなぜ瑞穂はここまで書いていながら消したのか?
この通り弾いたら僕のピアノに哲也のチェロが負けるから?
いやこの曲でそんな心配はいらないだろう?そんな曲ではない。どちらかと言えば三人で楽しみながら弾ける曲だ。弦楽八重奏をトリオでやるんだからどうやっても音が薄くなるのは否めない。だから軽い気持ちで演奏すればいいはずだ。
第一、相手がチェロを弾き始めて間の無い素人ならまだしも、哲也はコンクールで優勝もするぐらいの腕前だ。如何にスランプ(自称)に陥っているからと言ってこの曲で僕達について来れないなんてことは考えられない。
――では何故だ? これは哲也が気兼ねなく弾ける曲だから選んだのではないのか?――
――僕の考え過ぎか? ただ単に瑞穂が自分の編曲を気に入らなかっただけか?――
僕は疑問を感じながらも更に譜面を読み込んだ。瑞穂に感じた疑問はそれ以上広がらず、逆にどんどん音の粒が頭の中で広がっていく。
ラスト直前はチェロと左手とのユニゾンも面白いかもしれない……いや、瑞穂もそう考えていた様だ。
あえて突っ込み気味にシビアな音を出していくのも良いかもしれない。
2コーラス目は右手もリズムを刻むよりコードとアルペジオコードで演奏してみるのもいいかな。ここからはヴァイオリンとチェロのやり取りも聞いてみたい。哲也と瑞穂はどんな音色で言葉を交わすのだろうか? これは是非とも聞いてみたい。
僕はこれから始まる自分達の演奏を想像して浮かれた感情を覚えた。
それは今までに経験をした事が無い感情がだった。
他の奏者との演奏はいつもは孤独なピアニストに新鮮な喜びを与えてくれる。もう瑞穂の考えなんかどうでも良くなってきた。
僕は妄想でピアノを弾くのに我慢しきれず、早速彼女が書いた楽譜を広げてピアノを弾いてみたくなった。
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