第123話 瑞穂の遠慮
鍵盤に指をそっと置くとピアノの意思が伝わってくる。今日の乾いた空気の中でこの曲はとても合いそうだ。この頃、こうやってピアノの声を聴くのが弾く前の儀式の様になっている。
ピアノは僕の思う通りに弾けと言っている。勿論そのつもりだ。そして理由の判らない瑞穂の葛藤と遠慮を無駄にするつもりでもある。
ピアノの音の粒が音楽室に軽さをもって鳴り響く。曲の始まりから僕の頭の中ではヴァイオリンとチェロも絡みながら鳴っている。瑞穂の編曲は原曲を忠実に守りながらも彼女の個性をそこに乗せている。個性を出し過ぎるとそれは有名な曲であればあるほど違和感となって、聞き手のストレスになる事がある。
瑞穂は巧みにそれを避けながらもヴィオラの無い分音の厚みをチェロとヴァイオリンに上手く振り分けていた。
ヴァイオリンとチェロのハーモニーは美しく僕の頭の中で鳴り響いていた。これならストリングスの薄さをそれほど感じないだろう。
そんな事を考えながらも僕の指は鍵盤の上を軽くステップを踏むように弾んでいた。音を作り上げていく。瑞穂が本来書いたであろう音の粒を僕は想像しながら即興で弾いた。
それは透明感増しながら僕の頭の中で共鳴するハーモニーを軽く乗せて舞い上がっていく。とっても良い感じだ。
右手に呼応して思わず左手が絡もうとすると頭の中でヴァイオリンとチェロが寄り添ってきた。
あ、そうだった。これはピアノソロではなかった。瑞穂の懸念はこれか!
ピアノが勝手な自己主張する隙は無い。
どうやら瑞穂が自分が書いたスコアを消した理由は、僕の気に障るのを危惧しただけの事だったようだ。確かに僕自身、頭の中にヴァイオリンとチェロのパートを思い浮かべずに弾いたら僕の左手は気ままに踊っただろう。
瑞穂もそう考えたから、敢えて抑え気味の左手として書いたのだろう。もしかしたらこのストリングスの薄さを僕がピアノで何とか力技でカバーするのではないかと思ったのかもしれない。
如何にソリストのピアニストとはいえ、それぐらいの事は僕にだって解る。
僕がそれに気が付いてくれると彼女は思っていたようだ。僕のプライドに触れるのを躊躇(ためら)ったのか。だから敢えて瑞穂はそれを書くのをやめたのか……本当に見た目とは違って気が付く……いや考え過ぎな女の子だ。でもこういう子は嫌いじゃない。
弾き終わると瑞穂と哲也が拍手をしてくれた。
「亮ちゃん……」
瑞穂は目を見開いて僕を見ていた。やはりあの消されたスコアはこんな感じで書かれていた様だ。
「どう?」
僕は笑って彼女に答えた。
瑞穂はハッとした表情を一瞬見せたが直ぐに持ち直して
「亮ちゃん! 良い、とっても良い! やっぱり亮ちゃんに任せて良かった」
と目を輝かして言った。
「でしょう?」
「うん。私もヴァイオリンを持って来れば良かったなぁ」
と最後は少し残念そうだった。
「流石やなぁ。瑞穂が言いうだけあって綺麗な音をだしとんなぁ。俺もチェロが弾きたくなったわ」
と何も気が付かない哲也も褒めてくれた。
僕は図に乗って
「そうやろ?」
と笑った。
「ご満足いただけたようでホッとしたわ」
と同時に二人を見て本音が少し零れた。
瑞穂は安堵の表情を浮かべて、新しい楽譜を取り出した。
さっきまでの硬い表情はもう完全に消えていた。
やはり彼女の一番の気がかりは僕のピアノだったようだ。
彼女の意図を僕は間違わずに汲み取れたようだ。瑞穂の顔に安堵の表情が見えた。本当に分かり易い女の子だ。
でも鈍感な哲也は分かっていないんだろうな。そう思いながら僕は瑞穂から新しい楽譜を受け取った。
「今度は……ほんまにアマデウスかぁ……」
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